再び「人生の意味」 №576

再び「人生の意味」
令和2年2月18日

  先達ての星祭の折、お札と一緒にかんのんだより№573(人生の意味)を同封させて頂きました。そうしましたら何と嬉しいことに何人かの方がたよりに共感するご感想やお手紙を寄せて下さいました。たよりに書いたのは自分のこれまでの人生に対する忸怩たる思いでしたがそれに共感して下さる方に私が勇気づけられました。


 たよりに書いたのは自分のこれまでの人生を振り返ってでした。自身80年近い人生を過ごしてきて思うのは自分はこれまで何をしてきただろうか、です。様々な分野での発明発見や業績によって科学の発展や人類の福祉に多大な貢献された方に比べて自分の人生に何の価値があるだろうかという思いがしたのです。

 しかし、その時自分を助けてくれたのはお釈迦さまでした。お釈迦さまは私たちに偉業を成し遂げなさいとは言っておられません。私たちがなすべきことは「よいことをする、悪いことはしない、心を清らかにする」という三つだと言われるのです。この三つの教えこそ私たちが一生努めるべきことだと言われるのです。

 感想を下さったお一人、3月に定年退職を迎えるというお方は「これまで36年間自分は何をしてきただろうか」と思うことが多かったそうですが、たよりを読んで「救われました」とまで言って下さいました。そして4月になったら施設にいるお母さんを迎えに行き、できるところまで(介護を)していこうという気持ちになったと言われるのです。

 お手紙やご感想を頂いて私は本当に有難く思いました。上の方だけでなく感想を下さった方は一様に「お釈迦さまの三つの教えを肝に銘じてこの一年を送ろうと思います」と言って下さったことにそれこそが星祭の意図するところと快哉を叫びたい思いがしたのです。お釈迦さまの教えに従って生きることに星祭の意味があると思うのです。

 しかし、お釈迦さまの三つの教えは決して容易ではありません。いつだったか申し上げましたね。白居易さんが三つの教えに「そんなことは3歳児でも知っている」と言ったら(ちょうか)道林さんから「3歳の子が分かることが80歳の老人でも満足にできない」と言われてギャフンでした。人間は一生修行です。コツコツ努めましょうね。
 


「急がず休まず」
            ゲーテ


「生死」考 №575

 「生死」考 
令和2年2月17日

 日頃、読むことが多い「修証義」の第一章「総序」は「生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり、生死の中に仏あれば生死なし、但生死即ち涅槃と心得て生死として厭うべきもなく涅槃として(ねが)うべきもなし…」という言葉で始まっています。この生死というのは何を指しているのでしょうか。

 文字通りならば生死は「生と死」ということになりますが、私はこの場合の生死は「生老病死」だと思います。生老病死は四苦。人生における四つの苦悩ですね。生とは人間に生まれて生きること、老とは老いること。人は誕生の瞬間から老いが始まります。若い時には成長という時期がありますが、その成長も老化の一過程に過ぎません。

 病は病気になること。そして死は死ぬこと。考えれば生老病死は人生そのもの。生老病死こそ人生だと思います。生老病死のない人生なんてあり得ません。私たちは生老病死という人生を生きるのです。生老病死が人生なのですから私たちはこの生老病死から逃れることはできません。生死とは生老病死。生死とは人生なのです。

 この生老病死に象徴される人生を苦と捉えるか楽と捉えるかは人それぞれでありましょう。道元禅師が「生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり」と言われたのは、私たちがどのような生き方をしようともそもそも人生とは何か、その人生をどのように生きるかしっかり考えなさいということでありましょう。

 人生は一回限りと思う時、それならどんな勝手な生き方をしてもよいと思う人がいるかも知れません。また反対に一回限りの人生ならば精一杯努力する人生を送ろうと思う人もいるでありましょう。人それぞれです。道元禅師はその人それぞれの人生を「一人ひとりが真剣に考えなさい。それが仏教を学ぶものの努めです」と言われるのです。


 では「生死の中に仏あれば生死なし」とはどういう意味でしょうか。私はここで言う仏とは宇宙を司っている真実だと思います。私たち一人ひとりの人生もまた宇宙の真実そのものだと捉えることができれば生死の苦悩から離れることができるということではないでしょうか。宇宙の法則には苦しみも悲しみもないのです。
 

この生死はすなはち仏の御いのちなり
      正法眼蔵「生死」
 


傾聴ということ №574


傾聴ということ
令和二年2月4日

 先日の初観音には湘江庵の石井龍祐師にご法話を頂きました。石井師は毎年正月に檀信徒の皆さまにその年の抱負をお話されているのだそうです。敢えて公言することによってその抱負を実行せざるを得ない状況に追い込むというのです。で、師の今年の目標は傾聴。傾聴とは人の話に耳を傾けること。ただひたすら話を聞くことですね。
 
 師の話の中に東日本大震災で我が子を失ったお母さんの話を聴かれた方のことがありました。抱いていたわが子を津波にさらわれ自責の念に駆られて苦しむお母さんの話にただ耳を傾けて聴く。その傾聴者は「我が子は今どこにいるか」と尋ねられても敢えて答えず、互いに長い沈黙の時を持ったというのです

 その時、話を聞いている人が何か答えたらどうでしょうか。ひょっとしてそれが苦しんでいるいる人を救うかも知れません。でも反対に却ってその人の苦しみを増すことになるかも知れません。言いたい言葉を思いついても敢えてそれを言わずただ相手が言うことに耳を傾ける。傾聴とはそのことだというのです。

 人の悩み苦しみは基本的にはその人自身が乗り越えなくてはなりません。むろん助言してくれる人の言葉がヒントになることもありましょう。でも最終的には苦しみを越えるのはその人自身です。それはその人自身が悩み苦しんで見つけるもの。到達する心境でありましょう。傾聴とはその人の悩み苦しみに寄り添うことではないでしょうか。

 寄り添うとはその人の悩み苦しみに同化すること。その人の悩み苦しみと一体化するということです。傾聴とはまさにその同化・一体化のための作業に他なりません。悩み苦しむ人はその人の苦しみに一体化してくれる人から無言の力を得ることができるのです。そしてそれによってこそ苦しみ悲しみから脱却できるのです。

 そう言って思い出しました。いつだったかそよ風ヨーグルトのキャンペーンソング「いっしょに笑えば」という歌を紹介しましたね。あの歌の中に「誰かが泣いている時にはどうすればいいの。いっしょに泣いてあげたらいいの」という歌詞がありました。まさにそれこそ悲しみとの一体化ではありませんか。




    君の涙と僕の涙と いっしょに流せば 
        なんだか嬉しい 響き合う
              「いっしょに笑えば」