この一年 №568

この一年
令和元年12月18日

 平成31年から令和元年に変わったこの一年も終わろうとしています。思えば今年も色々なことがありました。皆さまはどんなお気持ちでいらっしゃいますでしょうか。この一年を振り返るとその一番はやはり新天皇が即位されて令和へと改元されたことでしょうか。新しい年号に皆さま希望と期待を持たれたことと思います。

 私も同じ思いです。新天皇陛下がその即位に当って憲法にのっとり国民に寄り添って象徴としての務めを果たし世界平和を願うと言って下さったことに全身全霊で世界平和をお祈り下さった平成天皇・皇后両陛下と同じ有難さを覚えてなりません。

 ところでこの一年、今年もと思うのは気象災害です。分けて秋910月の台風1519号では関東各県が甚大な被害を蒙りました。19号では100ヵ所以上の堤防が決壊して大水害をもたらし沢山の人が亡くなりました。地球温暖化による気象災害は年々激甚化する一方です。私たちの地球の危機はすでに私たちの命に係わるところまで来ているのです。

 胸痛むことのもう一つは今年も親による子どもの虐待死が後を絶たなかったことです。親によって虐待死させられた子には救いがありません。その切なさに不憫と悲しみを覚えてなりません。また5月川崎で起きた通り魔殺傷事件では小6女児と若い男性が亡くなりました。来年は幼い子どもの虐待死も通り魔事件も起きないでほしいと祈るばかりです。

 世界では今年もテロ事件が相次ぎました。中でも年末124日、アフガニスタンで活動していたペシャワール会の中村 哲さんが銃弾に斃れたという悲報には言葉を失いました。アフガニスタンの人々を救うには医療よりまず生活だと灌漑用水づくりに身を投げ打っていたいた中村医師がどうして殺害されなければならなかったのか。無念しかありません。

 でもそんな中、唯一希望を覚えたのがスウェーデンの16歳の女性、グレタ・トゥーンベリさんの登場です。グレタさんは地球温暖化防止のために世界各国が今すぐ対策をと訴えていますが私は日本でも世界でもグレタさんのような若い人がこれからどんどん現れて古い頭の政治家を一掃してくれることを望んで止みません。人類ルネサンス。来年がその人類ルネサンス元年になることを切に願っています。
 
 
ルネサンスとは「再生」という意味。

来年、私たちも日本もルネサンスしようではありませんか。


 

「メリハリ」考 №567

 「メリハリ」考
令和元年12月17日

先日のこのたより「祭りの晴れ着」でハレとケのことを申し上げましたらそれを読んで下さったMさんが「その言葉初めて聞きました」と感想を下さいました。ハレとケという言葉、初めてとおっしゃる方多いと思います。それも当然と思います。この言葉、民俗学には残っているでしょうが日常的には死語同然になりました。

 先日のたよりではハレとケを非日常(ハレ)と日常(ケ)だと申し上げました。往時の私たちの生活にはハレとケという対照的な二つがありました。端的に言えば盆と正月がハレの日、それ以外がケの日。一年はそれで過ぎました。個人的には生涯に宮参り、七五三、成人式、結婚など冠婚葬祭がハレの日としてあったのです。

 往時の人々の一年と一生はこのハレとケという日常非日常が根底にありました。ハレの日を楽しみにケの日の仕事をしていたのです。信じられないかも知れませんが往時は赤飯はむろん白米でさえ普段はなかなか食べられなかったと言います。この一つをとってもハレとケがどれほど大きな意味を持っていたかということでありましょう。

 そう考えると、往時の人たちにとってハレとケは一年一生のメリハリであったということができると思います。ハレとケが生活のリズムになっていたと言えましょう。そのことは農業を主体としていた時代には大切なことでありました。農業というお天気任せのきつい労働に耐えていくには必要なシステムであったと言えると思います。

 振り返って現在の私たちの生活はどうでしょうか。いまハレとケという意識をもって生活している人は少ないと思います。一つには生活が豊かになって毎日の食事が昔のハレの日同然になったこともありましょう。しかしその結果、私たちは生活にメリハリを失ったと思います。ハレとケが持っていた喜びや楽しみを失ったと思います。

 いま私たちは私たちの生活の中にハレとケが持っていたメリハリを取り戻すべきではないでしょうか。例えば、一日のうち5分でもお経を読む、静かに座るという時間を持ち、一年のうち元旦、お盆、お月見などの行事を喜びをもって行うということが大切ではないでしょうか。それこそが生きるということだと思います。


 父ちゃんのためならエンヤコラ
 母ちゃんのためならエンヤコラ
 もひとつおまけにエンヤコラ
          <ヨイトマケの唄>





星祭、祈りの教え №566

星祭、祈りの教え
令和元年12月7日

 今年もあと二十日余りになりました。今年もあっという間の一年でしたが振り返ると様々なことがありましたね。なかでも胸痛むのが自然災害です。9月の台風15号は千葉県に大きな被害をもたらしましたが、追い打ちをかけた10月の19号台風では水害などで93人もが亡くなり3人が行方不明になっています。哀悼に堪えません。

 最近の気象予報には「注意報」「警報」の上に「特別警報」がありますね。この「特別警報」は平成25年につくられましたが、いま毎年のようにこの警報が出されるのは災害をもたらす気象異変が年々深刻化しているということでありましょう。私たちが住んでいる「宇宙船地球号」はいま想像以上に大変な状態になっているのです。

 いや表題に星祭としながら気象災害の話になってしまいましたが、地球大変な時だからこそ益々祈りが大切になってきたと思うのです。かねがね「人生は祈り」と申し上げておりますが、私たちはいま自然に感謝し私たちの地球が平穏であることを祈らなければなりません。地球に対する敬虔な祈りこそが温暖化を食い止める最初の一歩になると思うのです。

 では、その祈りの実践はどのようにしたらよいのでしょうか。私はそれこそが星祭だと思います。星祭は文字通り九つの星を五行および方位に配してその年の運勢を占うものですが、その根底にあるのは私たちが天行(天の運行)という目に見えない力、大きなリズムの中に生かされているという敬虔な思いなのです。

 私たちは年に一度この敬虔な思いに立ち返って私たちが天命を全うする願いとともに自然と地球への感謝を新たにしなければなりません。星祭はそのためにあると思います。ともすれば私たちは自然への感謝を忘れて不遜になりかねません。地球に生かされているという敬虔な思いを忘れかねません。それではいけないのです。

 皆さん、星祭のお札は私たちが毎年自分の生き方を振り返り、正しい道を踏み外さないための有難いお守りなのです。どうぞ皆さま、小学生中学生の皆さんにそのことを教えてあげて下さい。祈ることの大切さを教えてあげて下さい。そのことは小学生中学生にとって間違いなく生涯の力になるのです。
 
 
天に唾する者はその唾に泣く

“19紅葉幻想 №565

19紅葉幻想
令和元年12月2日

今年も長門市俵山の西念寺さんの紅葉を見に行きました。西念寺さんの紅葉を見に行くようになってもう何年になるでしょうか。しかし、行く日が大寧寺さんの法要の日、1123日と決まっていますので必ずしも丁度見頃という時にはいきません。大半が散ってしまったという年もあったと思います。

しかし、今年は有難いことに丁度よい時でした。これはお天気の影響があったようです。近年は地球温暖化の影響で紅葉の時期が遅くなっているそうですね。紅葉と言えば1011月というイメージだったと思いますが暖地では近年12月が紅葉の時期になりつつあると言います。のっけから余談になりました。今年の拙詠をご覧頂きたく存じす。

    やわらかく静かな午後の陽を浴びて降る雨のごともみじ散りゆく

    降る雨の如く舞い散るもみじ葉の落ちて地をゆく音のかそけき

 吹く風に誘われて紅葉がまるで雨のように舞い散ることがあります。その中にいると得も言われぬ不思議な幻想に捉われます。まるで異界に迷い込んだような気になるのです。以前、私たちがホタルや花火に魅かれるのは霊界の記憶に重なるからではないかと申し上げたことがありましたが散る紅葉にも同じようなものがあると思えてなりません。

    午後の陽を浴びていよいよ透き通る色とりどりのもみじ美し

    満開とたとえたくなるもみじなりいま一瞬の秋の色どり

 紅葉には午後の陽が似合うという気がします。やや西寄りになった日差しの中で見上げる赤く黄色く透き通る紅葉は息を呑む美しさです。それはまさに一瞬の時だからこそ一層美しいのでありましょう。滅びを前にして輝く一瞬の美、と思います。

    さくさくと枯葉踏む音耳にしてあとは止まりし時とこの間と

    山門を絵の額にして迷いなくもみじ謳歌の絵定まりぬ

 紅葉を見ながら歩みを進めると落ち葉を踏みしめる音だけが聞こえます。その中に佇むと時空が止まったような感覚を覚えます。それは山門の向こうに見える黄葉が山門を額にした絵のように見えた時もそうでした。これも幻想?
 
 
 
   谷に射す午後の日差しを背にすれば
    地面に(しる)き我の人影