見死不救 №118

平成23年11月18日

見死不救


 先日、8日の毎日新聞に上の言葉を見ました。「(けん)()不救(ふきゅう)」とは「死にそうな人を救わない」という意味だそうです。いま中国でこの「見死不救」の行為を罰すべきだという声が沸き上がっていると言います。そのことが、何故いま中国で?というのは理由があります。つい最近「見死不救」そのままの悲しい事件があったのです。
 
 先月13日のことです。広東省仙山市の市場でひき逃げされた2歳の女の子がそばを通る誰にも助けられず数日後に死亡するという痛ましい事件がありました。道路に倒れている女児の横を18人もの人が見て見ぬふりで通り過ぎ、やっと19人目の女性が助け起こしたものの命を救うことは出来なかったのです。
 
 インターネットの映像は切ないものでした。女児のそばを皆見ぬふりで通り過ぎていくのです。気づかなかったという人はともかく大半は気づいていて通り過ぎたのです。小さな女の子の不安と恐怖を思うと胸が潰れそうな切なさを覚えてなりませんでした。その中国でいま薄情社会からの転換を叫ぶ声が起きているのはけだし当然と言えましょう。

 弱肉強食の戦国時代、性善説を説いた孟子に「惻隠(そくいん)」という言葉があります。幼い子供が井戸に落ちようとするのを見たら人は誰しも驚いて助けようとするであろう。それが惻隠の情、他人の苦しみ悲しみを我がことの如く同情し助けたいと思う心だと言うのです。孟子は「人皆、人に忍びざるの心(惻隠)あり。惻隠の心無きは人に(あら)ざるなり」と言うのです。

 仏教に言う「布施」はこの惻隠の情を原点にしているのではないでしょうか。三施(三つの布施)とは財施、法施、無畏施(むいせ)を言いますが、この無畏施こそ人の悲苦を救おうとする惻隠の心の表われだと思います。苦しみにある女の子を見ぬふりで通り過ぎた人たちは惻隠の心がなかったのでしょうか。孟子の言う人非人なのでしょうか。

 この問題は決して中国だけの問題ではないと思います。無縁社会と言われる我が国でもいつ同じようなことが起こるか知れません。いやすでに起きているのかも知れません。改めて観音様の慈悲の心を学びたいと思います



    施無畏者とは観音さまなり。
    抜苦与楽、慈悲の観音菩薩なり。