続・人生未完成遍路 №739

続・人生未完成遍路

令和5年7月18日 

 前号「人生未完成遍路」を考えながら幾つか思い出したことがありました。それらは以前申し上げたことではありますが、人生は未完成に終るということ、未完成に終らざるを得ないがゆえに生死が繰り返されるということを思って頂きたく改めて申し上げたいと思います。

 その一。四国お遍路は札所が88ヵ所あります。その88ヵ所目が結願寺・大窪寺です。大窪寺は結願寺ですから順番に回ってきた人にとっては四国遍路が完了したことになります。でも実は大窪寺から第一番の霊山寺に戻って遍路サークルが完成するのです。ということは、四国遍路は何回も何回も繰り返すことに意味があるのです。

 その二。「下山の路は是れ上山の路(あさんの路はこれじょうさんの路)」。私たち僧侶は修行が義務づけられていますが、その修行のために道場に上がることを上山といいます。そして修行が終わって道場を後にすることを下山といいますが、この言葉の言うところは修行が終わっての帰り道は修行に上がる道だということです。

 修行者は誰しも道場で一定の修行を積めば悟りまでとはいかずとも一段階を終わったと思うでありましょう。でも上の言葉はそうではないのです。一つの修行が終わってもさらにその先の修行がある。一つの修行の終わりはその先の修行の始まりの一歩だというのです。人みな人生は修行。その修行に終わりはないということなのです。

 そう言えば、日本サッカーの師と言われたデットマール・クラマーさんに「タイムアップの笛は次の試合のキックオフの笛である」という有名な言葉がありますね。クラマーさんは「終了は次の始まりである」とも言っているそうですが、クラマーさんにとっても「下山の路は上山の路」であったのでしょう。


 その三。メビウスの帯。これも以前お話したことがあったと思います。一本の紙の帯の両先端を一ひねりして貼りつけるとねじれた輪になりますが、この輪の一点からずっと辿っていくとその線は元に戻ってきます。表裏のない曲面になるのです。この表裏のない曲面こそ人生ではないかと思われてなりません。


生きることは旅すること 

終わりのないこの道

  歌・「川の流れのように」

人生未完成遍路 №738

 人生未完成遍路

令和5年7月17日

 かねがね私は「人生は中途で終わる」と申し上げてきました。中途で、という言い方は聞こえがあまりよくないので最近は「未完成で終わる」と言い方にしましたが、いずれにしても同じです。私たちの人生はゴールに達することもなければ完了することもありません。中途、未完成なのです。

 私は人は輪廻転生するという考えを信じていますが、なぜ輪廻転生するかと言えば私たちの人生が未完成に終るからからです。人は誰しも人生を未完成のまま終わらざるを得ません。となると、その未完成の人生には反省や総括が伴ないます。その反省・総括こそが次の生まれ変わりを生じさせるに違いないと思うのです。

 人が輪廻する存在であるという考えはインドにはお釈迦さま以前からあったと言われていますが、その考えがいま私が申し上げたように人生未完成に基づいているのかどうかは知りません。ただその根底には人は肉体存在であると同時に魂を持った霊的存在だという考えがあるに違いありません。

 話は飛びますが、いま私は井筒俊彦さんが書かれた「意識の形而上学‐大乗起信論の哲学」という本を読んでいます。この本は私にとって超難解で9割方理解できていないと思いますが、中に一か所、輪廻転生について「おっ、これだ!」と思わせられるところがありました。それをご紹介したいと思います。

 「起信論の語る究竟覚(くきょうかく)の意味での悟りを達成するためには、人は己自身の一生だけでなく、それに先行する数百年はおろか、数千年に亙って重層的に積み重ねられてきた無量無数の意味文節のカルマを払い捨てなければならず、(中略)不覚と覚との不断の交替が作り出す実存意識フィールドの円環運動に巻き込まれていく」


 井筒さんは上のように述べた後、「この実存的円環行程こそいわゆる輪廻転生ということの、哲学的意味の深層なのではなかろうか」と言われます。私は「これだ!」と思いました。人間は悟りに到るために何百年何千年となく生死を繰り返す。永遠遍路。それが輪廻転生でありましょう。


人は生ある限り繰り返し繰り返し

「不覚」から「覚」に戻っていかなくてはならない」

           井筒俊彦「意識の形而上学」


「四有」考 №737

「四有」考

令和5年7月8日

 先達てある方の四十九日法要の折、式の初めにその法要の意味をお話しました。皆さまもすでに何回か四十九日法要に参加されたことがあると思いますが、この法要は人間の生存状態を四つに分けた時の一つであることはご存知でない方もあるかも知れません。今日はそのことについてお話ししたいと思います。

 四十九日を皆さんは「中陰」という言葉で聴くことが多いと思いますが、上に申し上げましたようにこの中陰が四つのうちの一つで中有(ちゅうう)とも言います。他の三つは(しょう)()本有(ほんう)()()です。生有とは受胎の瞬間、本有とは誕生から死までの一生、死有とは死ぬ瞬間を言い、さらに死有の後生まれ変わるまでの中有を加えて四有となります。

 この四有のうち生有と死有は瞬間ですから生有は本有とくっついており、死有は中有とくっついていることになります。ということは人間は生有によって生まれる一生の間と死有によって生まれる生まれ変わりまでの間がワンサイクルになりますね。本有は長い人もいれば短い人もありますが、中有は49日と決められています。

 中有の期間が何故49日とされたのかは知りませんが仏教では人は死後49日で生まれ変わるとされているのです。でも本当に人は死後49日で生まれ変わるのでしょうか。私はそれはあり得ないのではないかと思います。それが本当だったらこの日本も人口減少など起こらないと思うのです。

 ま、それはさておき、私はこの四有が教えることは人間は輪廻する存在であるということではないかと思います。六道輪廻の考えもその一つと言えるのではないでしょうか。人は死によって肉体を失った後も霊魂として存在し続け、その霊魂はいつかまた肉体を得てこの人間世界に生まれ変わるということを教えていると思うのです。



 実は私は障害児教育に携わっている頃にドイツの人智学者ルドルフ・シュタイナーを知って輪廻転生を信じるようになりました。障害児を理解する上でも輪廻転生という考えは納得ができたのです。以来私は人は輪廻転生する存在であることを信じるようになりました。皆さんはどうお考えでしょうか。


汝も私も無始の時から、

生まれ変わり死にかわって転変無常である。

         
  空海<三教指帰>


あっぱれ人生 №736

 あっぱれ人生

令和5年7月1日

 もう30年以上も前、養護学校で学級担任をしていた時の教え子、福井華子さん(華ちゃん)の訃報がありました。44歳でした。華ちゃんはダウン症でした。ダウン症は心疾患や眼疾患を伴うことが多いのですが、華ちゃんも最後の一年は視力をかなり失ってご両親の介護によることが多かったということでした。

 私が担任していた中学生時代、華ちゃんはダウン症児特有の明るさと頑固さを併せ持った誠に痛快な女の子でしたが、才能的には驚くべき視覚記憶に加えて独特な感性を持った絵画表現力を持っていました。後に絵画展を開くことができたのも偶然ではありません。華ちゃんの絵には他の人には真似できない力があったのです。

 ダウン症児は未来の人類といわれますが、華ちゃんはその言葉ピッタリでした。ウソも衒いもありません。素直そのまま、怒る時は怒るし楽しい時は喜ぶ。喜怒哀楽に正直です。私たちが自分の感情を素直に表せなくなっていると思う昨今だけに豊かに感情を表すことができる人は誰からも愛されるでありましょう。華ちゃんがその人でした。  

 だからであったでしょう。華ちゃんの葬儀には驚くほどの会葬者があったそうです。そして最後のお別れには沢山の人が「華ちゃん有難う、華ちゃん有難う」と声をかけて呼びかけていたそうです。この様子を見ていた元同僚のAさんの心に浮かんだのはただ一言、「華ちゃん、あっぱれ人生」だったと教えてくれました。

 Aさんの「あっぱれ人生」という言葉を聴いて私は二つのことを思いました。一つは華ちゃんは勝ち組ということ。たとえ盛大な葬儀であっても儀礼が主で碌に悲しむ人もいない葬儀だったら負け組ではないでしょうか。華ちゃんの死を惜しみ悲しむ人が溢れた葬儀は華ちゃん自身の人柄によってです。あっぱれ人生としか言えません。



 もう一つ思ったことは、華ちゃんはこの人生で多くのものを獲得したに違いないということです。人はみな人生未完成で終わるというのが私の考えですが、華ちゃんは44年の人生で私たちより遥かに大きな成果を得たに違いありません。ダウン症を生きることで常人の及ばぬ人生を成し遂げたと思えてなりません。


「あんと(ありがとう)

とうしゃん、かあしゃん。

あんと みんな」   福井華子