この一年 №413

この一年
平成28年12月26日

 今年2016年も過ぎようとしています。昨年の延長で言えば今年は戦後71年、いわば次の戦後70年への最初の年でありました。しかし、その意味で今年を振り返ると、今年も平和からは遠い一年であったと思わざるを得ません。世界全体が平和から遠い一年であった思わざるを得ません。日本も決してその埒外ではないのです。

 この一年、世界ではISなどによる爆弾テロが後を絶ちませんでした。二度三度とそれが繰り返されたトルコではその度に多くの死傷者が出ましたし、つい先達てはベルリンのクリスマス市にトラックが突っ込んで沢山の死者が出ました。シリアの内戦も一向に収まらず米露の応酬のはざ間で罪のない市民、女性子供が犠牲になっています。

 日本では三月末に安保法が施行され11月には自衛隊PKO部隊に「駆け付け警護」の任務が付与されました。これによって現在スーダンに派遣されている自衛隊は、その状況になれば武器を使って戦闘をすることになります。これは武力の行使を放棄した憲法九条に反しないでしょうか。成立した法律が一人歩きする怖さを見る思いがします。

 この九月、精神科医の海原純子さんが気象の変化のこわさを「じわじわくるもの」と題するコラムで述べておられましたが、私はいま日本の平和がこのじわじわくるものに侵されつつあると思われてなりません。安保法の施行も駆け付け警護もその時点では何もなくてもいつか必ずそれに伴う変化をもたらすことになるのです。

 先日の毎日新聞の「悼む」欄に戦争犯罪を問い続けた元BC級戦犯、飯田 進さんの訃報がありました。飯田さんは憲法九条を解釈変更し集団的自衛権の行使を可能にする動きが現実味を帯びていた時「戦争は将兵が死ぬだけでは済まされない残酷なものだ。戦争体験者から見ると、今の動きは一言で言えば蟻の一穴だ」と言われたそうです。

 まさにその通り。いま日本の平和はその蟻の一穴によって失われつつあるのではないでしょうか。私たちはその今だからこそ一人ひとりが平和への思いを新たにし、世界平和の実現とその維持のために努力しなければならないと思います。私たちの孫そしてひ孫たちが戦禍に苦しむことがないように。


「頑丈な堤防も蟻の開けた小さな穴がもとになり次第に崩れていく」
              ~飯田 進~

まほうの言葉③ 「さすけね」№412

まほうの言葉③  「さすけね」
平成28年12月25日

 今年10月に亡くなった登山家、田部井淳子さんを送る会が先日19日、母校の昭和女子大学で行われ1400名もの方が集われたそうです。田部井さんと言えば,1975(昭和50)年に女性として初めてエベレスト登頂に成功し、その後、これも女性で初めて七大陸最高峰登頂者になった方であることは皆さまご存知と思います。

 福島県三春町出身の田部井さんは、あの東日本大震災のあと、若い人に復興の元気を出して貰おうと富士登山ボランティアを続けておられたそうですが、今年7月の富士登山が田部井さんの最後の登山になったということです。恐らくはその時も患っていたガンを押してのことであったかも知れません。そのお心に瞑目しかありません。

 田部井さんは登山とは何かと尋ねられると、決まったように「屋根の下ではない雄大な自然の中で生きていることを実感する」「一歩一歩はつらいけれど必ず終わる」と言われていたそうですが、幾度も雪崩に襲われ死の恐怖を体験した人の実感なのでありましょう。

 その田部井さんに田部井さんのまほうの言葉があることを知りました。それが表題の「さすけね」です。皆さんはこの言葉の意味がお分かりでしょうか。それをお教えする前にこの言葉がいつどんな中で田部井さんの口から発せられたのかを申し上げなければなりませんね。1985年と言いますから昭和60年のことです。
 
 この年、田部井さんは女性三人で旧ソ連パミールにある7000m級の三峰を一シーズンで完登する快挙を成し遂げましたが、この折の一峰目で相方の二人ともがへとへとになり、キャンプに着いても自分の靴さえ脱げない状態になってしまったのだそうです。この時、二人の面倒に当たった田部井さんの言葉が「さすけね」だったのです。

 「さすけね」とは「大丈夫。気にしないで」という意味の福島方言。「差支えない」が訛ったのです。この言葉に相方の二人はどんなに慰められ勇気づけられたでしょうか。その後無事、三峰登頂が出来たのもこの言葉のお蔭かも知れません。いい言葉ですね。「さすけね」。どうぞ皆さんもこのまほうの言葉で人を元気づけてあげて下さい。

  ほのぐれのごどは、さすけね。
        (no problem

八重子のハミング №411

八重子のハミング
平成28年12月18日

 先達て久しぶりに映画を観ました。それが表題の「八重子のハミング」です。監督はご存知、山口県出身の佐々部 清さん、主人公夫婦の夫、石崎誠吾役を(ます) 毅さん、同じく妻石崎八重子役を高橋洋子さんが好演、ロケ地のほとんどが萩市内および下関市内という山口の魅力いっぱいの作品です。それだけに親しみの湧く映画でありました。

 しかし、この映画は娯楽映画でも観光映画でもありません。すでに皆さまご承知の通り、この映画は認知症という私たちにとって極めて切実かつ重い問題をテーマにした映画です。それも創作ではなく萩市の教育長であった(みなみ) 信孝さん夫妻の実話。若年認知症を患った妻が亡くなるまで12年間の介護の日々を辿った映画です。

 今から7年前の2009年、この「八重子のハミング」を映画化しようと決意した佐々部さんは、その実現のためにあちこちの映画会社やテレビ局の映画部にお願いに回ったそうです。この時、佐々部さんは「この国は将来こういった老老介護の問題が大きくなる。何を撮ったかではなく、何のために撮るのか」だと訴えたそうです。

 しかし、それに応じてくれるプロデューサ―は遂に現れずじまいだったそうです。そんな中での出発は、監督自身「命がけの船出」と言う通りであったに違いありません。映画を観た私は強い感銘を受けた一方、製作過程の監督はじめスタッフの方々の苦労が、映画が提起する問題の深刻さとこの国のありようを象徴していると思われてなりませんでした。

 我が国は長寿化の半面、その長寿化に伴う多くの問題が露わになってきました。このたよりでも何度も申し上げていることですが、長寿化と同時に漂流する老人、そしてこの映画が提起した認知症、老老介護、介護離職などが深刻化しています。最近は老老介護の二人が共に認知症化する例が多くなっていると言われます。

 映画「八重子のハミング」が提起した問題は、監督自身が思った通り、今後ますます私たちの切実な問題になるでありましょう。誰も避けられないこの問題、国の対策が大切なことは言うまでもありませんが、同時に私たちが近隣の人たちと助け合う共助のシステムを作っていく必要性が思われてなりません。


   幼な子に かえりし妻の まなざしは
   想い出連れて 我にそそげり
          ~陽 信孝~

また紅葉幻想 №410

また紅葉幻想
平成28年12月17日

   銀杏の木 黄金敷きたる 観音寺 浄土かくやと 我が手を合わす

   かさかさと 音たてて降る 木の葉踏み 千々に乱れし 我が心知る

今年の観音寺のイチョウ黄葉は、昨年の「ヘン」をリベンジするきれいな色づきでした。散り敷いた葉は文字通り黄金のじゅうたんになって鮮やかな黄金色を楽しませてくれました。上の二首は毎日お詣りのKさんがお寄せ下さったものです。Kさんは雨のように音を立てて散る葉と散り敷いた葉の美しさに感動されたと言います。

散り敷いた葉に浄土を見たKさんの思いは私も同感です。私は「一陣の 風に舞い散る 黄葉なり 夢と見紛う いてふの手品」と詠みましたが、風に舞い落ちる黄葉のなかに立つと、一瞬夢ではないかという幻想に襲われます。舞い落ちる黄葉が異界との間のカーテンのように思われるのです。はらはらと散る葉が不思議な錯覚を起こさせるのでありましょう。

ひらひらと 流れ散りゆく 紅葉なり いづくゆくかは 風のまにまに

冬まぢか 澄みし空気に 木立らは 黙して立てり その静かさよ

  奥山の 気配さながら 山寺の 紅葉の小径 白き風ゆく

  ひとしきり 鳥の声して あとはただ 木立ちを渡る 風の静けさ

上の四首は昨年もご紹介した長門市俵山木津の西念寺さんの紅葉を詠んだ歌です。西念寺さんの今年の紅葉は多分見事であったのでしょうが、残念ながら私が伺った時はほとんどが散った後でした。僅かに残っているものもありましたが、大半は散って下の小径が地面も見えないほど一面の紅葉に覆われていました。

その中で私は静かさを味わうことが出来ました。西念寺さんは特段山の中にある訳ではありません。しかし、山門に至る石段を少し上るとまるで深い山中に入ったような雰囲気と静かさがあるのです。音もなく木々を渡る風とひとしきりの鳥の声が一層の静寂を醸しています。それはやはりこの世とは違った何かを感じさせて止みません。

音に溢れた日常の中で静かな時を持つこと。静寂を味わう時を持つこと。慌ただしい毎日だからこそそれが大切ではないでしょうか。

一面に 紅葉散り敷く 石段の 
上に揺るがぬ 古き山門

「自由は土佐の山間より」№409

「自由は土佐の山間より」
平成28年12月1日

前号に続き人権学習、高知県現地研修会の感想です。二日目、1110日は高知市立自由民権記念館で同館が所蔵する資料に基づいて高知県の民権運動の紹介と説明を頂きました。いやはや前日同様、私が知らないことばかりでした。板垣退助も名前だけという身にはまた恥じ入るばかり。聴くほどに土佐は先駆的な民権運動の発祥地なのでした。

 表題の「自由は土佐の山間より」という言葉は記念館の門柱脇、そして玄関正面に掲げられていますが、これこそが土佐の民権運動を象徴する言葉なのでしょう。この言葉は民権運動の思想的指導者であった植木枝盛の言葉だそうですが、この言葉には民権運動が生まれた土佐という土地に対する誇りと気概が溢れていると思います。

 私は何故に土佐に民権運動が澎湃と沸き起こったのかは知りませんが、当時の土佐は民権論者を生み出す縁を持っていたに違いありません。欧米に留学して彼の地の民権を学んできた人があったことも大きかったのだと思います。その必然的風土が板垣退助、中江兆民初め、後藤象二郎、馬場辰猪、中島信行ら多くの人材を輩出したのでありましょう。

 それらの中の一人が植木枝盛でした。植木は安政4年、土佐下級藩士の子に生まれました。留学こそしませんでしたが、独学で西洋近代思想を学び、明治25年僅か35歳で亡くなるまでの間、民権運動の理論的指導者として活動しました。この植木が残した功績の一つに「東洋大日本国々憲案」という憲法案があります。

 私はこれも全く知りませんでした。だからこそ一層驚きました。この憲法案は日本の現憲法の制定過程に参考に供されたというのです。何とそこには現憲法が謳う「法の下の平等」「思想及び良心の自由」「学問の自由」「集会、結社、言論、出版などの表現の自由」がすでにきちんと記されているのです。


 いま改憲派が独自の憲法を主張するのは、現憲法がアメリカによって押し付けられたということに根差していますが、植木の憲法案を知れば、決してアメリカの押し付けではないことが理解されるでありましょう。土佐の民権運動がいかに素晴らしいものであったかそのことを知る誠に貴重な研修でありました。合掌。

 頼む所は天下の輿論
   目指すかたきは暴虐政府
     ~馬場辰猪「日本政府の状態」~