暗黒の恐怖政治 №747

 暗黒の恐怖政治

令和5年9月18日

陶芸家の友人、Tさんが手紙をくれました。その手紙に「1960年代に30億だった世界の人口がいまや80億人を越えてなお増加中という状況を考えると価値観も世界観も従来のものでは見切れないと思います。善悪も是非も離れて損得抜きで世界を見たい、考えたいと思っています」とありました。

 同感でした。この数十年の間に世界は人口問題だけでなく気象異変、貧困、飢餓、エネルギー、教育等、様々な問題が露わになりました。Tさんが言うように、従来の価値観ではこれらの問題を解決することは出来ません。昨年申し上げた孫の晴君ではありませんが「戦争なんかやってる場合じゃない」のです。

 しかし、いま世界の現実は民主主義国と独裁主義国に二分しつつあります。独裁主義国で行われているのは恐怖政治です。先日、戦争会社ワグネルのプリゴジンが飛行機墜落死しましたが、飛行機の墜落はプーチンの指示以外にないと言われています。ロシアは反政府活動家の抹殺や粛清を当然のようにする国なのです。

 一方、中国も目下、言論統制を強化して多くの若者を逮捕し拘留しています。ゼロコロナ政策に異議を唱えて白紙運動をした若者の中にはいまだに釈放されていない人がいると言います。その締めつけは半スパイ法の拡大や秘密警察等によって自国だけに留まらず日本など海外の留学生に対しても脅迫を繰り返しているというのです。

 上のような実態を知れば知るほどロシアや中国で行われているのはSDGsにはほど遠い暗黒の恐怖政治だと思われてなりません。中国は日本で活動する若者の親や兄弟を拘留してまで自由な活動を抑え込もうとしているそうです。習近平やプーチンは一体どんな野望に突き動かされているのでしょうか。


 思います。日本をロシアや中国のようにしてはなりません。かつては日本もいまの中国のような時代があったのです。そうならないために大切なことは人類共存への努力です。祈りです。宇宙船地球号に生存している人類は一蓮托生です。世界人類が助け合わなければ地球の未来はありません。


「私たちは自由のための活動をやめません。

 諦めません。」

    <中国人日本留学生>


般若心経の教え №746

 般若心経の教え

令和5年9月17日

ご存知、般若心経はその冒頭で観世音菩薩が深般若を行じていた時に五蘊皆空を悟って一切の苦厄から離れることができたとありますね。そして釈迦十大弟子の一人、智慧第一と言われた舎利子(シャーリプトラ)に「色即是空・空即是色」を教えるという構成になっています。

 般若心経の眼目はこの「色即是空・空即是色」であることはもちろんでありましょうが、難しいのは「空」の解釈ではないかと思います。。ものの本を読むと、形あるものは実体がないなどと書かれていますが、「目の前にあるものには実体がない」という説明に皆さますんなり納得できるでしょうか。

 以前申し上げたことがありますが、私はこの空を考えていて、空即是色をAとし、諸行(色)即無常をBとすれば、三段論法で「空即無常」と言えると思ったのです。そして、空=無常とすると、納得いく説明がつくように思ったのです。無常とは一瞬も留まらず変化し続けるということなら、そこには実体がないとも思えてきます。

 無常は止まったら無常ではなくなってしまいます。無始無終、永遠の変化を続けるという存在には生滅も垢浄も増減もありません。縁に従って変化をしていくというだけです。般若心経にいう色を私たち人間と思えば私たちの生死は変化の一過程に過ぎません。感じること思うこと考えること行うことも変化でしかありません。

 しかし、今日私が思ったことは「だからどうなんだ」なんです。この私たち人間を含めた一切のものは無常の存在だとしても「じゃ、それでどうなんだ」になりませんか。その答えが後半にある「菩提薩埵。依般若波羅蜜多故。心無  」(菩薩は般若波羅蜜多に依るがゆえに心にわだかまりがない)だと思ったのです。


般若心経が真に私たちに教えたいことは上のこと。六波羅蜜に代表される修行を実践しなさいということではないでしょうか。お釈迦さまは今わの際にも自分が死んだ後には戒律を守って生きなさいと言われました。心経は私たちに戒を守って生きることの大切さを教えているのではないでしょうか。


我が滅後に於いて当に波羅提木叉を尊重し珍敬すべし。


此れは是汝等が大師なり <仏垂般涅槃略説教誡経>

続「あんたはえらい!」 №745

続「あんたはえらい!」

 令和5年9月9日

養護学校に勤務していた時に同僚だったT先生がいます。私より二つ三つお若い女性です。T先生もすでに仕事は辞められましたが、退職後もかつての教え子さんたちの相談に乗ったり民生委員をしたり憲法9条を守る活動をしたりと忙しい日を過ごされていて話を伺う度に頭の下がる思いをしています。

 いつでしたか、そのT先生を評して「あんたはえらい!」と申し上げたことがあったと思いますが、今日はその続きのお話です。実は5月に頂いた手紙にT先生がお住まいの地域の老人会長を引き受けたとあったのです。老人会のもめごとに関わっているうちに受け手のない会長を引き受ける羽目になったということでした。

 その話を聴いた時、私はよくもまあお引き受けになったものだと思いました。苦労することが分かっている老人会長を進んで引き受ける人なんてまずいないでしょう。苦労を承知で引き受けられたことにT先生だからこそ引き受けられたのだろうと敬服し、頭の下がる思いを禁じ得ませんでした。

 今日の話はその後のことです。8月半ば、4年ぶりに地域の夏祭りが行われることになってT先生の老人会(あかね会)に盆踊りの依頼があったのだそうです。えらいなと思ったのはその時のT先生の対応です。とっさに3年前に元気よく踊っていた方を思い出してその方に援助を“直訴”されたのだそうです。

 T先生の熱意にほだされたのでしょう。その方は快く承諾して友だちを連れて練習日に来てくれて集まった8人が定番と言われる5曲をマスター。盆踊りは老若男女で盛り上がって久しぶりに楽しい夏まつりを行うことができたのだそうです。T先生の熱意がなければできなかったことでありましょう。「あんたはえらい!」です。


 前号のこのたよりで人知れずの働きほど尊いものはないと申し上げました。この度のT先生のように苦労を苦労とも思わず、というのははたやすくできることではありません。盆踊り最後の曲が「チャンチキおけさ」だったそうですが、恐らく皆さん、「知らぬ同士が小皿叩いて」踊ってくれたことでありましょう。


身と心おけさに託して盆踊り


有難う、車さん №744

 有難う、車さん

令和5年9月5日

秋暑き汽車に必死の子守歌   中村汀女

 上の句は暑苦しい汽車の中で泣く子をなだめようと必死に子守歌を歌うお母さんを詠んだのでしょうか。いやはやこの夏も暑かったですね。残暑はまだ続いていますが夏の暑さは年々酷くなっているように思えてなりません。

 そんなある日、車を走らせていてふと思ったのが「有難う、車さん」でした。炎天の真、熱せられた道を車はものも言わずに走ってくれます。タイヤにはそれこそ灼けるほどの熱がかかっているに違いありません。それを思うとこの自分の代わりに灼ける道を走ってくれる車に思わず「有難う」と言わざるを得なかったのです。

 なぜそう思ったか。実は私は灼ける道を走る車のタイヤと同じような体験をしたことがあるからです。もう20年以上も前、四国お遍路に行った時のことです。7月下旬の暑さ真っ盛りの時、行けども行けどもの国道を歩いていて靴底から伝わる熱さに耐えきれない思いをしたことがあるのです。

 その時の靴は分厚い底の頑丈なものでした。しかし、コンクリートの道を歩けば熱せられた道の熱が否応なく靴底を通して伝わってきます。それは並み大抵ではありませんでした。耐えきれずに靴を脱いで道路際にへたり込むことを何度繰り返したか分かりません。今なお忘れることができないほどの苦痛を味わったのです。

 考えれば車の有難さは夏だけではありません。冬には夏とは反対に凍てつく道を走らなければなりません。凍てつくという言葉通り、氷のように冷たい道を走らなければなりません。雪の道もありましょう。氷の道もありましょう。その道を自分に代わって走ってくれるのです。有難いとしか言えません。


 思いました。私たちのこの世界はこの車のような人があって成り立っているのです。縁の下の力持ち、誰にも知られず黙々と働く人たちがいてくれるからこそこの人間世界が成り立っているのです。私たちは車の有難さを知らなければなりません。そして私たちも車に倣って黙々と世の為を心掛けなければなりません。


花を支える枝 枝を支える幹

幹を支える根 根は見えねんだなあ

       <相田みつを>