祈りの本質 №55

平成22年8月17日

祈りの本質

 8月15日朝、ラジオをつけると落合恵子さんの『絵本の時間』でした。私が毎週この番組を聞いているという訳ではなく、つけたらその時間だったというに過ぎませんが、ちょうどその日が65年目の終戦記念日であったからでしょうか。落合さんは平和の大切さや平和を守るということを話されていたようです。というのは、私が聞いたのは最後の4,5分でしたから肝心なところは聞けていないのです。

 しかし、その中で落合さんが言われた「祈るだけでは駄目。実践をしなければ・・」という言葉には思わず異議を覚えずにはいられませんでした。勿論、落合さんは平和への祈りの呼びかけをされたのでしょう。そのうえで実践の大切さを言われたのでしょうからそれを否定するつもりはありません。私にとってはその通りのことなのです。 しかし、その自分がなお異議を申し上げるのは「祈るだけでは駄目」とすれば、その人にとって祈りとは何だろうと思うからです。祈りは単なる自己満足、実現力のない気休めなのでしょうか。

 結論から申し上げれば私にとって祈りは気休めでも無力のものでもありません。私の考える祈りは力でありエネルギーでありパワーなのです。卑近な例を上げましょう。もしあなたが誰か特定の人に好意の念を持ったとしましょう。すると、その人もあなたによい思いを持ってくれることは誰しも頷かれるでしょう。それはどうしてですか。
 
 それは何故かと言えば、念すなわち思いが力、エネルギーだからです。“念力”なのです。念力が相互に伝わったのです。祈りも全く同じです。私たちの平和への祈りは平和を実現させる力なのです。確かに祈りは目に見えて何かを変化させることは少ないかも知れません。しかし、祈りの力は目に見えなくても固い心を和らげ冷たい心を温かく変化させるのです。祈りは力なのです。祈りはエネルギーなのです。祈りは実践に異なりません。真の祈りが平和への力になるのです。



(おもい)諸法(すべて)にさき立ち 
諸法(すべて)(おもい)に成る 
(おもい)こそは諸法(すべて)()
             ~「法句経」~