この一年 №759

 この一年

令和5年12月25日

令和5年ももうすぐおしまい。皆さま今年はどんな年でしたか。うれしいこと悲しいこと様々なことのあった一年ではなかったかと思います。私も同じです。でも考えたら私にとってはうれしいことや楽しいことより痛恨極まりないこと、いまなお怒りを抑えきれない悔しいことの方が多かったように思います。

 まず痛恨極まりないことの第一はイスラエルとハマスの戦争です。この2か月余りの戦闘でガザでは15000人以上もの死者が出ていますが、そのうちの半数近くは女性と子どもだと言います。罪のない子どもが命を奪われ、また親を失った子どもが悲嘆に絶叫している姿を見ると胸の痛みを覚えてなりません。

 たより前号でも申し上げましたが、人類はなぜ共存ができないのでしょうか。イスラエルとパレスチナは共存しない限り戦闘は終わりません。日本はどうしてこれを強く言わないのか。アメリカの後ろでイスラエルをかばっていては何の解決にもなりません。日本が独自の平和外交ができないことに残念を覚えてなりません。

 そんな日本の岸田内閣。支持率は20%台にまで低落していますが、国民が望む政治をしていないのですから当然でありましょう。申し上げた平和外交どころか核兵器禁止条約会議にはオブザーバー参加もしていません。その一方で国民の生活困窮化をよそに軍事費増強や原発回帰に躍起になっているのを見ると気は確かか、と言いたくなります。

  怒りに任せて言い過ぎましたでしょうか。寺のこの一年の反省もしたいと思います。正直のところ、恥ずかしながら寺は満足なことができませんでした。この一年はこの観音寺が住職そっちのけでみんながわいわいがやがややってくれる寺になってくれることを意識しましたが十分ではありませんでした。


 反面、寺は皆さまの援助には助けられました。いつものお花替えの方々が庭掃除や草取りはじめトイレや階段掃除、観音さまの会の時の調理やお接待などをして下さりそのご援助がなければ寺の運営は成り立たなかったと申し上げて過言ではありません。私の一年は感謝の一言に尽きます。厚く御礼申し上げます。

 守られている ありがたさよ

 生かされている うれしさよ

 朝に夕に 手を合わせよう

 感謝のまことを ささげよう

       
         <坂村真民>

いろとりどり №758

いろとりどり

 令和5年12月16日

いま放送されているNHKの「みんなのうた」に「いろとりどり」という歌があります。幾つかのバージョンがあるようですが、そのうちの一つ「ツバメ」という歌に心惹かれるものがありました。多分皆さんもお聴きになっているだろうと思います。ちょっと長い歌詞ですがその1番をご紹介しましょう。

 「きらめくみなものうえを むちゅうでかぜきりかける つばさをはためかせて あのまちへいこう うみをこえて ぼくはそう ちいさなツバメ たどりついた まちでふれた たのしそうな ひとのこえ かなしみにくれる なかまのこえ みんなそれぞれ ちがうくらしのかたち まもりたくて きづかないうちに きずつけあって しまうのはなぜ おなじそらのしたで ぼくらは いろとりどりのいのちと このばしょで ともにいきている それぞれ ひともくさきも はなもとりも かたよせあいながら ぼくらはもとめるものも えがいてるみらいも ちがうけれど てとてをとりあえたなら きっとわらいあえるひがくるから ぼくにはいま なにができるかな」 

 この歌詞を読むと、まさにこの歌はいまの世界今の私たちを歌っているではありませんか。世界の人はそれぞれ違う暮らしをしていていい筈なのにそれを忘れて傷つけあってしまっています。人も草木も花も鳥もみんなそれぞれ求めるものは違っても肩寄せ合って生きるべきなのにそれができていません。

 この歌の根底にあるのは「共存」ですよね。求めるものも描いている未来も違うけれど、その違いを認め合って存在するのが共存ですよね。まして人間、民族宗教言語文化習慣が異なるのであればその違いは違いとして容認し、そこに足を踏み込まないというのが共存の基本ではないでしょうか。


 ロシアのウクライナ侵攻がいまだに続いている今、新たにイスラエルとハマスが戦争状態になって多くの罪のない人々が命を奪われています。犠牲者の多くが子どもや女性だということに胸の痛みを覚えてなりません。世界の人々が「いろとりどり」の生活ができるように私たちはいま何ができるでしょうか。



鈴と、小鳥と、 それから私、

みんなちがって、みんないい。

         金子みすゞ


また「あぶらんけんそわか」 №757

また「あぶらんけんそわか」

 令和5年12月12日

 もう4,5年前のことですが、このたよりで「あぶらんけんそわか」というお話を申し上げました。神奈川にお住いのEさんは、子どもの頃、お母さんが新しい靴を下ろす時に「あぶらんけんそわか」と唱えながら靴底をやかんの胴に交互に当ててケガなどしないように祈ってくれたというお話でした。

 Eさんはその後結婚してからもお母さんがしていたように「あぶらんけんそわか」のおまじないをして、ご主人から「何してるの」と笑われたそうですが、幼少時の体験はそれほど根強く心に残っているということでありましょう。私もまた未だに新しい履物を下ろす時は必ず玄関を一度出てまた入るという母の教えを守っています。

 実は今日の「あぶらんけんそわか」は上のこととはちょっと異なりますが、小さい頃に母に聞いたことで未だに実践していることがあるのです。油料理の鍋やフライパンを洗う前に先ずその底を冷たい水で流すのです。そのことによって油がよく落ちるかどうかは分かりませんがともあれそのことを続けているのです。

 上のことはある日、母が「油鍋は洗う前に底を水で流すとよく落ちるね~」と言ったことによっています。母がそのことを何で知ったのかは知りません。新聞かラジオで知ったのかも知れませんが、ともあれその時の自分にはそのことが印象深かったことは間違いありません。それで未だに洗う前に水かけをしているのです。

 Eさんの「あぶらんけんそわか」も私の「靴を履いて玄関を出てまた入る」もその底にあるのは祈りです。その靴を履いて出かけて交通事故や悪いことに出逢わないようにという素朴な祈りがあってこそでありましょう。小さい時にその祈りを自然のうちに母に学ぶという有難さがあると思います。


 油鍋の底に先ず水を流すというのは祈りではありません。しかし、小さい時の体験を今なお継続しているというのは幼少時の体験が人間にとって如何に大きな意味を持っているかということであり、それが母親に教えられたものであればその人の母はその人の胸にずっと生き続けているということでありましょう。


幼少時、何を教えられ何を学ぶか。

そのことがその人の一生を貫く


ノラ猫考 №756

 ノラ猫考

令和5年12月8日

先月初めの季節外れの夏日数日から一ヵ月、朝晩の冷え込みはやはり冬に相応しくなってきましたね。寄る年波か、私は年々寒さに弱くなっているように思いますが皆さまはいかがお過ごしでしょうか。寒さが厳しくなってくるこの時期になると気になることがあります。ネコ。そう、ノラ猫のことなんです。

 以前にもお話ししましたが、この観音寺境内には常時数匹のノラ猫が徘徊しています。そのうちの一匹に時々エサをやるようになってもう数年になると思いますが、今年になってそのノラが本堂の縁の下に“常駐”しているらしいことが分かりました。。朝、エサやりの時間にその気配を感じて縁の下から飛び出してくるのです。

 実は2,3 年前の冬にそのノラが数日姿を見せないことがあって凍死してしまったのではないかと心配したことがありました。その時は別の場所にいたようで無事に戻ってきましたが、これから寒くなる一方ですから本堂の縁の下で冬の寒さを越せるだろうかと心配になるのです。ノラ猫も大変ですよね。

 思えば可哀相なノラ猫ですが、私はノラ猫の本当の悲哀は人とのつながりを持っていないことだと思います。いや人とだけではありません。ノラ猫同士もつながりを持っているようには思われません。ということは、ノラ猫はいつも一人。触れ合う仲間も話をする相手も持っていない孤独の存在ということになります。

 サン=テグジュペリの「星の王子さま」に王子さまがキツネと出会う場面があります。王子さまはキツネに「遊ぼう」と声をかけますが、キツネは「きみとは遊べない。なついてないから」と言います。それを聴いた王子さまは「なつくってどういうこと。なつくってどういうこと」と2度訊ねます。


 キツネは答えます。「なつくって絆を結ぶということだよ」と。私はいま改めて思います。私たちは絆を結んだ生活をしているでしょうか。親子兄弟夫婦友人知人、そして民族宗教文化を異にする人たちと絆を結べているでしょうか。絆を結ぶということはどういうことなのか改めて考えたいと思います。


「もしきみがぼくをなつかせたら、

 ぼくらは互いに、なくてはならない存在になる」

                <キツネ>  

白雲悠々清流滔々 №755

  白雲悠々清流滔々

令和5年11月17日

霜月にもみじ惑わす夏日かな   京都・小林茂雄

        義理のよに短い秋がやって来た  壱岐・中永郁子

  上の句は4日の朝日川柳。下の句は6日の中畑流万能川柳(毎日)。4日の朝日かたえくぼには「四季の歌 三番は省略しますー歌手」ってのもありました。

 立冬になってからはいつもの初冬になりましたが、今月初めは全国的に季節外れの夏日でしたね。東京では11月で過去最多となる3度の夏日を記録したと言います。上の中永さんの句やかたえくぼの通り、近年は四季のうちの春秋があっという間に過ぎてしまう気がします。これも気象異変かも知れません。

 古今和歌集や新古今和歌集を見ても夏冬の歌に比べて春秋の歌が圧倒的に多いのは日本人がいかに春秋に季節を感じて来たかでありましょう。季節から春秋がなくなってしまうのは人の心から繊細な感受性を奪ってしまうことになるに違いありませんが、それこそが無常ではないでしょうか。

    白雲悠々漂碧空    青い空に白い雲

    清流滔々逝秋風    秋風に逝く水は

    古今東西無別事    いまもむかしも変わりなく

     諸行無常万物空    すべてのものは移りゆく

 日本の季節から春秋がなくなってしまうのは残念でありますが、移りゆくということはそういうことだと思います。季節がどんなに変化しても移りゆくことには変わりありません。それが諸行無常ということだと思います。人間の思いとは関係なく変化し続けるのが無常ということだと思います。


 度々申し上げることですが無常は真理です。自然の摂理です。人間の勝手な思いとは一切関係ありません。非情無情です。だからこそ真理なのです。お釈迦さまはその真理に気づかれたのです。真理をつくったのではなく真理に気づかれたのです。私たち人間もその真理のうちに生まれて老いて病んで死にます。合掌。


祇園精舎の鐘の声

諸行無常の響きあり


イスラエル・ハマス戦闘を憂える №754

 イスラエル・ハマス戦闘を憂える

令和5年11月16日

ウクライナとロシアの戦争が停戦になっていないのに今度はイスラエルとハマスが戦争になりました。この1か月余り、イスラエルの攻撃は容赦なくガザ地区を襲い、これまでにガザでは1万人以上もの死者が出ています。空爆は病院や学校、難民キャンプまでに及び沢山の子どもたちが犠牲になっていることに胸の痛みを覚えてなりません。

 そうしたイスラエルに対して世界各地で攻撃停止を叫ぶ声が高まっていますが、米欧の多くの国はイスラエルの自衛権を支持して戦闘が収まる気配はありません。憎しみの応酬でしかないこの戦闘をどうしたら終わらせることができるのか。そう考えていて二つのことを思いました。

 その一つはイスラム原理主義です。ご存知のようにハマスは国ではありません。イスラム原理主義の組織です。ハマスも当初は難民や貧困層のための社会活動団体として発足したようですが1987年以降は武装闘争に転換してしまい、以来、シャリーア(イスラム法)に基づくイスラム社会への復帰を目指す過激な組織になってしまったのです。

 私は原理主義そのものを悪いとは思いません。しかし、それが宗教の中で組織化されると過激先鋭化、武力闘争化してしまう弊害を生じると思います。その端的な例がハマスでありタリバンではないでしょうか。ハマスはまずこのことを思うべきです。攻撃と報復は憎悪と対立の連鎖しか生まないのです。そこに平和はありません。

 思ったこと、もう一つは「共存」です。この4年以上、私たちはコロナウイルスに翻弄されてきました。私たちがこのコロナウイルスに学んだことは共存でした。絶滅させることができないウイルスとは共存するしかないというのがコロナの教訓だったと思います。このことは異民族同士でも全く同じだと思うのです。


 実はイスラエルとパレスチナ解放機構(PLO)には1993年に互いに共存する劇的な合意(オスロ合意)がありました。この和平プロセスを2002年に崩壊させたのはイスラエルですから今回の戦闘の責任はイスラエルにあるとも言えます。共存がどんなに大切かイスラエルも考えるべきでありましょう。


「彼、われをうちまかし

 彼、われをうばえり」かくのごとく

 こころ執せざる人々こそ 

 ついにうらみの(やす)(らい)を見ん

          (法句経)


四住期考 №753

 四住期考

令和5年11月11日

先日、中学時代の友人が来てくれた折、年齢のことから「四住期」の話になりました。互いに八十路になった今、これからどう生きていくかが切実な問題であることは言うまでもありません。八十路と言えば人生最終章であることは無論です。残された時間を如何に過ごすかなのです。

 四住期については以前ちょっとだけ申し上げたことがあると思います。古代インド法典では3上流階級であるバラモン、クシャトリア、バイシャはその生涯を学生(がくしょう)期、家長期、林住期、遊行期(遍歴期)の四つに分け、それぞれの時期になすべきことを決めておりました。

 学生期はベーダ聖典を読誦し祭式の施行法を学ぶなど宗教教育を受ける時期で512歳でこの時期に入り12年間修行することが決められていました。次の家長期では結婚し男児を設けることが義務づけられていました。そして3番目の林住期においては息子に家を託して森林に隠遁する、となっています。

 問題は最後の遊行期です。この遊行期では諸国を遍歴し、托鉢のみによって生活するとなっていますが、年齢的には幾つぐらいからがこの遊行期になっていたのでしょうか。学生期は1212とすれば24歳までになります。家長期はそれ以後家庭を持ち、仕事を息子に任せるまでですから6070歳でしょうか。

 とすると林住期はそれ以後の1015年間となり遊行期の始まりは70歳前後になるでしょうか。この時期になったら托鉢で命を支えながら諸国遍歴をすべきだというのがこの四住期なのです。してみると私はすでにこの遊行期になっていますが、遊行期どころか林住期さえ出来ていないことに愕然とせざるを得ません。


 ただ、インドでも四住期は理想的なあり方であり現実には必ずしも守られてはいなかったようです。それを知って私はいま自分はどうするかという思いに駆られています。僅かでも実行に移せることがあるか。気持ちだけでも林住期遊行期に近づけることができるか。遊行期を実践し続けた山頭火はすごいと思います。


分け入っても分け入っても青い山

           種田山頭火


最新葬儀お墓事情 №752

 最新葬儀お墓事情

令和5年11月8日

コロナが5類化して半年になりました。しかし終息した訳ではありません。いつまた猛威を振るうかという恐れはそのままでありましょう。それでも今年は催し事が4年ぶりに再開されたという話をよく聞きました。無事再開無事終了ならばそんな嬉しいことはありません。誰しもそう願っていると思います。

 しかし、コロナによって中断せざるを得なかった催事の中には消滅を余儀なくされたものもあったでしょうし、消滅まで行かなくとも規模や内容を縮小せざるを得なくなったものもあるに違いありません。そのことを考えるとコロナによる生活への打撃がいかに大きかったかと思わざるを得ません。

 コロナによる変化で大きかったものの一つとして葬儀があると思います。コロナ猛威の最中には遺体を目にすることも叶わず、葬儀も形だけにせざるを得ませんでした。会葬者を家族だけにする、いわゆる「家族葬」です。 しかし、そのやむを得ずであった家族葬がいまはむしろ積極的に選ばれるようになったのです。

コロナ以前から見れば大変な違いになりましたが、私はこの家族葬を否定はしません。儀式が先行しがちの大きな葬儀より家族が心を込めて亡き人を送ることができればそれに越したことはありません。恐らく家族葬はこれから葬儀として定着していくだろうと思いますが、それは決して悪いことではないと思うのです。

もう一つ。これはコロナとは直接関係はしませんが、近年はお墓に対する意識の変化があると思います。つい最近までは「○○家の墓」という形が多かったと思いますが、お墓の維持が難しくなるに連れて墓じまいする人が多くなり、結果として納骨堂、海洋散骨、樹木葬等が多くなっています。これも時代でありましょう。


このように考えると、私たちの死を取り巻く状況は変化の過渡期にあると思えてなりません。しかし、大事なことは葬儀無用ではありません。むしろ今まで以上に亡き人を懇ろに弔い、死者とのつながりを深めていくことではないでしょうか。そのために葬儀のあり方、お墓の形をしっかり考える必要があると思います。


皆さまに質問です。

「お墓って何ですか?」



生老病死を考える №751

 生老病死を考える

令和5年10月18日

生老病死(しょうろうびょうし)を四苦と言いますね。仏教では人が生まれて生きること、老いること、病むことそして死ぬことの四つを苦しみと捉えました。ま、生きることには喜びも楽しみもありますからすべてが苦とは言えませんが、生きることと捉えればやはり苦と言えるのかも知れません。

 先日、この生老病死を思っていて歌とも言えぬ言葉を思いつきました。「人はみな生まれて老いて病んで死ぬ諸行は無常命永遠」という言葉です。人はみな生まれた時から老いが始まります。その途中には病がつきものです。病気にならずに済む人はありません。そして最後はその病によって死んでいきます。

 上のことに当てはまらない人はいません。生物の宿命と言うべきでしょう。程度の差こそあっても人はみんな老いて病んで死んでいくのです。でもその私たちは無常の存在であることを考え合わせると、生老病死は1回ではなくなります。無常というのは変化し続けるということですから死の後も変化し続けることになります。

 その意味で思ったことが「命永遠」ということです。私たちは今生での肉体の命が終わってもなお変化し続けてまたいつの日か生まれ変わって人間として生きるに違いありません。無常とはそれを言うのだと思います。私たちの命は永遠の変化をしていく。変化せざるを得ない。それが無常なんだと思うのです。

 ご存知「修証義」の第1章総序は「生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり」という言葉で始まりますね。そして「生死の中に仏あれば生死なし」と続きます。私はここに言う「仏」は無常と同意語だと思います。無常こそ真実。仏というのは無常そのものを言っているのだと思うのです。


 無常は瞬瞬刻々です。その無常の中には生も死もありません。生は生、死は死。ただ真実真理が存在するだけです。人間から見れば一瞬一瞬の変化に喜怒哀楽を思いますが、無常の仏から見れば変化の過程にしか過ぎません。「但生死即ち涅槃と心得て、生死として厭うべきもなく涅槃として欣うべきもなし」なのです。


「この生死は、すなはち仏の御いのちなり」

       正法眼蔵「生死」


政治・メディアの責任 №750

 政治・メディアの責任

令和5年10月17日

たより前々号で最近痛切に思っていることとして「核のごみ」のことを書きましたが、その後改めて二つのことについて思うことがありました。一つは沖縄の普天間飛行場の辺野古への移設計画のこと、そしてもう一つはジャニー喜多川の性加害のことです。この二つのことで政治とメディアの責任を強く思ったのです。

 まず辺野古への移設のこと。9月に最高裁で沖縄県敗訴が確定するや国交相は4日までに埋め立て予定地の軟弱地盤の設計変更を承認するよう県に指示しました。しかし、玉城デニー知事は「期限までに承認することは不可能」と回答しました。これに対して国交相は翌5日、代執行に向けて福岡高裁那覇支部に提訴したのです。

 私はこれに強い怒りを感じてなりません。沖縄県知事の回答は解決を弄んでのことではありません。法を理解してなお法通りにはできない苦しみの結果なのです。その苦しみは玉城デニー知事一人ではありません。沖縄県民の苦しみなのです。その苦しみを一顧だにせず代執行提訴をする政府に怒りしかありません。

 もう一つのことはジャニー喜多川の性加害です。その性加害は何と40年以上、被害者は500人以上になると聞いてそのすさまじさおぞましさに身の毛がよだつが思いがしますが、ではどうしてそんなことが許されたのか、ではないでしょうか。なぜ長い年月多くの人への性加害がまかり通ったのか、ではないでしょうか。

 被害者救済委員会などの調査で明らかになってきたのは、性加害の事実を多くの人そしてNHK始め民放各局、新聞社などが知っていたという事実です。程度の差こそあれジャニー喜多川の性加害を周囲はむろんメディアも知っていながら見て見ぬふりをし続けてきたのです。犯罪を越える癒着があったとしか言いようがありません。


 沖縄のこと、そしてジャニー喜多川のこと、この二つに共通して言えることは当事者の悩み苦しみを無視しているということです。政府もメディアも当事者の悩み苦しみを全く思っていません。それで政治と言えるでしょうか。正しいメディアと言えるでしょうか。堕落ここに極まるという思いがしてなりません。


「公共放送が信じられなくなったら

 我々は何を信じたらよいのか分からなくなります」 

                <友人T君の嘆き>


人生の「勝ち組」 №749

 人生の「勝ち組」

令和5年10月10日

勝ち組負け組、という言葉がありましたね。元々は日本が敗戦した時、ブラジルに移民していた人が日本は戦争に勝ったという人と負けたという人の二つに分かれたことによっていますが、最近はこの言葉はもっぱら人生の勝ち負けを評して使うことが多くなりました。人生成功者は勝ち組、失敗者は負け組、という訳です。

 ちょっと以前のことになりますが、仁平寺様がこの勝ち組負け組のことを話して下さったことがありました。覚えておいでの方もあるかも知れません。仁平寺さんはその時、葬儀でどのように見送られるかでその人の人生における勝ち負けが判断されるように思うと言われたのです。

 話はこうでした。葬儀に立ち会っていると、ささやかな式ではあっても参列した人が一様にその人の死を悼み別れを惜しむ葬儀がある一方、沢山の人が参列し誠に盛大な葬儀でありながら死を悲しむ人は僅かしかおらず大半は義理儀礼的に参加しているに過ぎないという葬儀もあるというのです。

 いやまたなんでそんな話を思い出したかと言いますと、先達て仁平寺様のお母上様が亡くなってご葬儀があったからです。仁平寺様のご意向でむしろささやかなご葬儀でしたが、その式中、仁平寺様の小6になるお嬢さまがずっと泣き通しだったのです。特に最後のお別れ、お棺に花を入れるときは「おばあちゃん有難う」と号泣でした。

 私もそのお嬢さんの声に思わず涙をこぼさずにはいられませんでしたが、その時、私は仁平寺様がお話下さったこと、仁平寺様のお母上様は勝ち組の人生を送られたということをはっきりと実感したのです。自分の死を嘆き悲しんでくれる人がいるということがどんなに有難く得難いことかと思ったのです。


 近年、葬儀は儀式的になりつつあると思えてなりません。しかし、葬儀は悲しみを素直に表わすことが大切ではないでしょうか。それが亡き人のためではないでしょうか。この度の仁平寺様のお母上様のご葬儀でのお孫様の姿に私は葬儀の原点を教えられた気がしてなりませんでした。


皆の衆皆の衆 嬉しかったら

腹から笑え 悲しかったら 

泣けばよい



核のごみ №748

核のごみ

 令和5年10月8日

いま痛切に思っていることがあります。「核のごみ」です。先月27日、長崎県対馬市の

比田勝(ひだかつ)尚喜市長が原子力発電所から出る高レベル放射性廃棄物、いわゆる核のごみの最終処分場の候補地選定を巡り、この第一段階となる文献調査を受け入れない意向を表明したことです。

 比田勝市長は「市民の間で分断が起こっており市民の合意形成が十分でないと判断した」と言われましたが、その通りだと思います。この問題には住民の分断がつきものです。市議会は請願時に賛成10反対8と賛成が上回っていますから市長にとってはまさに苦渋の決断であったに違いありません。

 賛成派は市長の決断を「議会軽視だ。無責任だ」と言っているようですが、私は市長の決断を是としたいと思います。「市民やこれから育つ子どもたちの将来を考えた」という市長の言葉はその通りだと思われてなりません。核のごみは一刻で終る問題ではありません。対馬市民の生存を脅かすことさえあるかも知れないのです。

 比田勝市長は文献調査を受け入れた時の交付金については「ひとたび風評被害が生じれば20億円では代えられない」と言っていますが、これもその通りでありましょう。受け入れ派は文献調査時の交付金20億円に期待しているのでしょうが、島の産業である漁業や観光に風評被害が起こることを考えていないのでしょうか。

 核のごみのことを考えていてつくづく思うのは原発が如何に中途半端、人間の手に負えないものであるかということです。福島原発を見ての通り、事故原発の廃炉の目処もたっていません。汚染水は溜まり続けています。周辺の町や村が以前のように復興することも絶望的と言っていいでありましょう。


 ところが、岸田首相は原発の稼働延長ばかりか原発の新設さえしようとしています。ドイツは福島原発の事故を見て脱原発を決めました。着々と脱原発を進めています。この違いは一体何でしょうか。私たちはこの状況を傍観していてよいのでしょうか。岸田首相がしていることを許してよいのでしょうか。



「人間が天の火を盗んだーその火の近くに生命はない」  

     高木仁三郎


暗黒の恐怖政治 №747

 暗黒の恐怖政治

令和5年9月18日

陶芸家の友人、Tさんが手紙をくれました。その手紙に「1960年代に30億だった世界の人口がいまや80億人を越えてなお増加中という状況を考えると価値観も世界観も従来のものでは見切れないと思います。善悪も是非も離れて損得抜きで世界を見たい、考えたいと思っています」とありました。

 同感でした。この数十年の間に世界は人口問題だけでなく気象異変、貧困、飢餓、エネルギー、教育等、様々な問題が露わになりました。Tさんが言うように、従来の価値観ではこれらの問題を解決することは出来ません。昨年申し上げた孫の晴君ではありませんが「戦争なんかやってる場合じゃない」のです。

 しかし、いま世界の現実は民主主義国と独裁主義国に二分しつつあります。独裁主義国で行われているのは恐怖政治です。先日、戦争会社ワグネルのプリゴジンが飛行機墜落死しましたが、飛行機の墜落はプーチンの指示以外にないと言われています。ロシアは反政府活動家の抹殺や粛清を当然のようにする国なのです。

 一方、中国も目下、言論統制を強化して多くの若者を逮捕し拘留しています。ゼロコロナ政策に異議を唱えて白紙運動をした若者の中にはいまだに釈放されていない人がいると言います。その締めつけは半スパイ法の拡大や秘密警察等によって自国だけに留まらず日本など海外の留学生に対しても脅迫を繰り返しているというのです。

 上のような実態を知れば知るほどロシアや中国で行われているのはSDGsにはほど遠い暗黒の恐怖政治だと思われてなりません。中国は日本で活動する若者の親や兄弟を拘留してまで自由な活動を抑え込もうとしているそうです。習近平やプーチンは一体どんな野望に突き動かされているのでしょうか。


 思います。日本をロシアや中国のようにしてはなりません。かつては日本もいまの中国のような時代があったのです。そうならないために大切なことは人類共存への努力です。祈りです。宇宙船地球号に生存している人類は一蓮托生です。世界人類が助け合わなければ地球の未来はありません。


「私たちは自由のための活動をやめません。

 諦めません。」

    <中国人日本留学生>


般若心経の教え №746

 般若心経の教え

令和5年9月17日

ご存知、般若心経はその冒頭で観世音菩薩が深般若を行じていた時に五蘊皆空を悟って一切の苦厄から離れることができたとありますね。そして釈迦十大弟子の一人、智慧第一と言われた舎利子(シャーリプトラ)に「色即是空・空即是色」を教えるという構成になっています。

 般若心経の眼目はこの「色即是空・空即是色」であることはもちろんでありましょうが、難しいのは「空」の解釈ではないかと思います。。ものの本を読むと、形あるものは実体がないなどと書かれていますが、「目の前にあるものには実体がない」という説明に皆さますんなり納得できるでしょうか。

 以前申し上げたことがありますが、私はこの空を考えていて、空即是色をAとし、諸行(色)即無常をBとすれば、三段論法で「空即無常」と言えると思ったのです。そして、空=無常とすると、納得いく説明がつくように思ったのです。無常とは一瞬も留まらず変化し続けるということなら、そこには実体がないとも思えてきます。

 無常は止まったら無常ではなくなってしまいます。無始無終、永遠の変化を続けるという存在には生滅も垢浄も増減もありません。縁に従って変化をしていくというだけです。般若心経にいう色を私たち人間と思えば私たちの生死は変化の一過程に過ぎません。感じること思うこと考えること行うことも変化でしかありません。

 しかし、今日私が思ったことは「だからどうなんだ」なんです。この私たち人間を含めた一切のものは無常の存在だとしても「じゃ、それでどうなんだ」になりませんか。その答えが後半にある「菩提薩埵。依般若波羅蜜多故。心無  」(菩薩は般若波羅蜜多に依るがゆえに心にわだかまりがない)だと思ったのです。


般若心経が真に私たちに教えたいことは上のこと。六波羅蜜に代表される修行を実践しなさいということではないでしょうか。お釈迦さまは今わの際にも自分が死んだ後には戒律を守って生きなさいと言われました。心経は私たちに戒を守って生きることの大切さを教えているのではないでしょうか。


我が滅後に於いて当に波羅提木叉を尊重し珍敬すべし。


此れは是汝等が大師なり <仏垂般涅槃略説教誡経>

続「あんたはえらい!」 №745

続「あんたはえらい!」

 令和5年9月9日

養護学校に勤務していた時に同僚だったT先生がいます。私より二つ三つお若い女性です。T先生もすでに仕事は辞められましたが、退職後もかつての教え子さんたちの相談に乗ったり民生委員をしたり憲法9条を守る活動をしたりと忙しい日を過ごされていて話を伺う度に頭の下がる思いをしています。

 いつでしたか、そのT先生を評して「あんたはえらい!」と申し上げたことがあったと思いますが、今日はその続きのお話です。実は5月に頂いた手紙にT先生がお住まいの地域の老人会長を引き受けたとあったのです。老人会のもめごとに関わっているうちに受け手のない会長を引き受ける羽目になったということでした。

 その話を聴いた時、私はよくもまあお引き受けになったものだと思いました。苦労することが分かっている老人会長を進んで引き受ける人なんてまずいないでしょう。苦労を承知で引き受けられたことにT先生だからこそ引き受けられたのだろうと敬服し、頭の下がる思いを禁じ得ませんでした。

 今日の話はその後のことです。8月半ば、4年ぶりに地域の夏祭りが行われることになってT先生の老人会(あかね会)に盆踊りの依頼があったのだそうです。えらいなと思ったのはその時のT先生の対応です。とっさに3年前に元気よく踊っていた方を思い出してその方に援助を“直訴”されたのだそうです。

 T先生の熱意にほだされたのでしょう。その方は快く承諾して友だちを連れて練習日に来てくれて集まった8人が定番と言われる5曲をマスター。盆踊りは老若男女で盛り上がって久しぶりに楽しい夏まつりを行うことができたのだそうです。T先生の熱意がなければできなかったことでありましょう。「あんたはえらい!」です。


 前号のこのたよりで人知れずの働きほど尊いものはないと申し上げました。この度のT先生のように苦労を苦労とも思わず、というのははたやすくできることではありません。盆踊り最後の曲が「チャンチキおけさ」だったそうですが、恐らく皆さん、「知らぬ同士が小皿叩いて」踊ってくれたことでありましょう。


身と心おけさに託して盆踊り


有難う、車さん №744

 有難う、車さん

令和5年9月5日

秋暑き汽車に必死の子守歌   中村汀女

 上の句は暑苦しい汽車の中で泣く子をなだめようと必死に子守歌を歌うお母さんを詠んだのでしょうか。いやはやこの夏も暑かったですね。残暑はまだ続いていますが夏の暑さは年々酷くなっているように思えてなりません。

 そんなある日、車を走らせていてふと思ったのが「有難う、車さん」でした。炎天の真、熱せられた道を車はものも言わずに走ってくれます。タイヤにはそれこそ灼けるほどの熱がかかっているに違いありません。それを思うとこの自分の代わりに灼ける道を走ってくれる車に思わず「有難う」と言わざるを得なかったのです。

 なぜそう思ったか。実は私は灼ける道を走る車のタイヤと同じような体験をしたことがあるからです。もう20年以上も前、四国お遍路に行った時のことです。7月下旬の暑さ真っ盛りの時、行けども行けどもの国道を歩いていて靴底から伝わる熱さに耐えきれない思いをしたことがあるのです。

 その時の靴は分厚い底の頑丈なものでした。しかし、コンクリートの道を歩けば熱せられた道の熱が否応なく靴底を通して伝わってきます。それは並み大抵ではありませんでした。耐えきれずに靴を脱いで道路際にへたり込むことを何度繰り返したか分かりません。今なお忘れることができないほどの苦痛を味わったのです。

 考えれば車の有難さは夏だけではありません。冬には夏とは反対に凍てつく道を走らなければなりません。凍てつくという言葉通り、氷のように冷たい道を走らなければなりません。雪の道もありましょう。氷の道もありましょう。その道を自分に代わって走ってくれるのです。有難いとしか言えません。


 思いました。私たちのこの世界はこの車のような人があって成り立っているのです。縁の下の力持ち、誰にも知られず黙々と働く人たちがいてくれるからこそこの人間世界が成り立っているのです。私たちは車の有難さを知らなければなりません。そして私たちも車に倣って黙々と世の為を心掛けなければなりません。


花を支える枝 枝を支える幹

幹を支える根 根は見えねんだなあ

       <相田みつを>

素朴に生きる №743

 素朴に生きる

令和5年8月17日

 些か前のことになりますが、ある方に醤油せんべいを頂きました。千葉県野田市の「喜八堂」というおせんべい屋さんが作ったものです。「これが昔のせんべいです。こげ具合、ふくれ具合、ひびわれ具合、そり具合そして醤油のしみ具合、一枚一枚様々それぞれに味わいが今も息づく昔菓子です」とありました。

 百聞は一見に如かず、と食べて納得でした。味わい深く実に美味しいのです。説明に書いてある通りのこげ具合、ひびわれ具合、醤油のしみ具合などが美味しさそのものになっているのです。見た目は武骨そのもの。おしゃれな感じはどこにもありませんが、これが昔のせんべいかと頷くものがありました。

 実は丁度同じころ、別の方からクッキーを頂いたのですが、このクッキーも言えばまた昔風でした。ごつごつしていてスマートさは全くありません。でも美味しいのです。下さった方の添え書きに「お精神で作っているものです」とありましたが、そうか、精神かと思うところがありました。

 昔せんべいと“精神”クッキーを頂いて共通するものを感じました。それは「素朴」ということです。二つに共通しているのは素朴そのものだと思いました。ということは、せんべい・クッキーに限らず私たちが日常的に口にしているお菓子類は素朴さを失っているということでしょうか。

 お菓子や食べ物に限らず私たちは素朴なものから遠くなっているのではないでしょうか。食べ物だけではありません。私たちの生活すべてが素朴からは遠くなっているに違いありません。私たちは今一度素朴に生きること、生活の素朴化を図るべきだと思われてなりません。


 人が素朴に生きる時人は人を殺しません。他人のものを奪いません。足ることを知って必要以上に求めません。お日さまに感謝し雨に感謝し、海山川に感謝し、草木に感謝します。生きていることを喜び笑顔が絶えることがありません。もう一度私たちは素朴に生きることを考えなければなりません。


素朴は単、素朴は純、

  素朴は明、素朴は快。

       単純明快