念彼観音力 №624

 念彼観音力

令和3年3月27日 

 前号で孫娘の幼稚園の送り迎えが終わってしまうのが淋しいと言う私のカミさんのことを申し上げましたが、言ってみればこれも生きていくうちに感じる苦難でありましょう。四苦すなわち生老病死のうちの第一、生苦は普通生れ出る時の苦しみと言われますが私は「生きていく」上での苦しみが生苦だと思います。

 ところへ、Yさんから「一人でいるとぽつんと取り残されたような不安に襲われます」とメールを頂きました。ぽつんと取り残されたような不安な気持ちはきついです。皆さまも同じような不安をお感じになったことはあるでしょうか。他人には恐らく分かって貰えない孤独な思いというのはつらいです。

Yさんから不安の解消を尋ねられましたが名案が浮かびません。気分転換に出かけてみるとか歌を歌うとかはどうですかと世俗的なことを申し上げましたが、それをする気持ちになればともかくそんなことで易々と解決することでないことはもちろんです。祈る思いで苦しみからの解脱のチャンスを待って下さいと申し上げるばかりでした。

 私はその時苦しみからの解放という意味で解脱という言葉を使いながら恥ずかしいことに観音経を忘れていました。観音経は私たち人間の苦しみからの解脱を言っています。火難水羅刹難王難鬼難などの七難初め数々の災難から逃れる(解脱)ためにはただ一心に観音さまの名を唱えることだというのです。

 毎月、観音さまの会の時詠んでいる観音経の偈に何回も「念彼観音力」という言葉が出て来ますね。その言葉です。念彼観音力(彼の観音の力を念じる)とは観音さまのお名前を唱えるということです。降りかかった苦難から解脱させて貰えるように観音さまの力を頂くために一心に観音さまのお名前を唱えるということです。

 観音さまのお名前は「南無観世音菩薩」でも「おんあろりきゃそわか」でも随願即得陀羅尼になっている十一面観音様のご真言「おんまかきゃろにかそわか」でもいいと思います。大切なことは一心称名です。ただ一心に観音さまに救いを求めれば観音さまは必ずその願いを聞き届けて下さるのです。合掌。

    信心すなわち一心なり、

    一心すなわち金剛心、

          金剛心は菩提心、

          この心すなわち他力なり

              <親鸞聖人>

「サヨナラ」ダケガ人生ダ №623

 「サヨナラ」ダケガ人生ダ

 令和3年3月21日

 いきなりカミさんの話で恐縮です。孫娘の幼稚園の送り迎えをしてきたカミさんが孫の卒園とともに送り迎えが終わることになって淋しいと言うのを聞いてその気持ちがよく分かる気がしました。カミさんは上の男の子から合わせて6年間幼稚園の送り迎えをしてきましたからそれが終わりになるのは淋しいことに違いありません。

 カミさんが「4月からもう一緒に歩くことができないわねぇ」とつぶやいたら孫娘は「じゃあ小学校まで一緒に歩いたら」と慰めてくれたそうですが、孫の送り迎えがウォーキングになっていたというカミさんにしてみれば孫娘が言ってくれたように小学校まで行きたい気持ちだろうと思います。孫娘の送り迎えがそれほどに楽しいひとときであったのでしょう。

 でも考えていてカミさんが言う淋しさは惜別の淋しさではないかと思いました。幼稚園の送迎がなくなっても孫娘と一緒に暮らすことに変わりはありません。しかし、孫娘の健やかな成長に喜びと感謝を感じていた送り迎えの楽しい時間がなくなるというのは人生途上の一つの別れであり、その惜別の思いに淋しさが伴うのは当然だろうと思います。

 別れの酒を詠った()()(りょう)の「勧酒」(勧君金屈巵 満酌不須辞 花発多風雨 人生足別離)。その転句と結句を井伏鱒二さんは『ハナニアラシノタトヘモアルゾ「サヨナラ」ダケガ人生ダ』と訳されました。眺めていたい花が一夜の風に散ることがあるように人生には思いもしない別れや泣く泣くの別れがあります。悲しいけれどそれが人生なのです。

 別れと出会いの3月、若い皆さんの中にはこの3月に中学・高校、大学を卒業された方もお出でと思います。学びや遊びを共にした友人との別れに淋しさ悲しさを覚えた方も多いことでしょう。ひょっとしたら今回の別れが今生の別れになってしまうかも知れないのです。淋しさ悲しさを感じて当然です。

 でも思って下さい。別れは別れだけには終わりません。別れは新しい出会いの第一歩なのです。若い人にとっては特にそうです。一つの別れは一つの成長のあかしです。人はみな別れを積み重ねて成長していくのです。別れがあるから出会いがある。それを繰り返していくことこそが私たちの人生なのです。

 

    

 Bon voyage(道中ご無事に)