「下山(あさん)の路は是れ上山の路」 №507

  下山(あさん)の路は是れ上山の路」
平成30年9月25日

この911日、山口県曹洞宗青年会の研修に参加させて頂き、熊本県菊池市の(しょう)護寺(ごじ)様に拝登して参りました。この聖護寺は道元禅師から6代の嫡孫、大智祖継禅師がお開きになった名刹ですが、私がこの研修に参加させて頂きたいと思ったのは表題の「下山の路は是れ上山の路」という言葉を言われたのがこの大智禅師だからです。
 いやはや聖護寺は大変なところでした。菊池市に入ってから車は左右にうねうね。細い登り道をくねくね。片側は断崖のような道にヒヤヒヤしながらようやくの到着でした。大智禅師が聖護寺を開かれたのは室町時代ですから当時はそれこそ人跡稀な絶境であったに違いありません。聞けば冬は零下1020℃とのことにその厳しさが偲ばれました。
 大智禅師は生涯に沢山の偈頌(げじゅ)をつくられましたが「下山の路は是れ上山の路」という言葉は「出山(しゅつさんの)(そう)」という偈頌にあります。/耿耿(こうこう)青天夜夜星/()(どん)一見長無明/下山路是上山路/欲度衆生無衆生/というのがそれです。耿耿と輝く星。お釈迦さまはその明けの明星をご覧になってお悟りになったと伝えられています。それが第一句です。
しかし、大智禅師は第二句で瞿曇(お釈迦さま)はその明けの明星を一見して「無明を長じた」と言われるのです。この「無明を長じた」を大雄山最乗寺の山主であった余語翠巖老師は「迷いが出てきた」と解釈されます。お釈迦さまが明けの明星をご覧になって迷いを生じたとは一体どういうことでしょうか。
 それが次の第三句「下山の路は是れ上山の路」なのです。下山とは修行僧が修行を終えて道場を下りること。そして上山とは修行のために道場に上がることです。お釈迦さまは六年の苦行を経て(下山)されて悟りに到りました。しかし、大智禅師はお釈迦さまが悟りと同時に得たものは再びの無明、迷いであったと言われるのです。
 この意味は、修行に終わりはない、ということだと思います。私たちも一定期間、修行道場に行きます。そこでそれぞれの修行を終えてまた自分の寺に戻ります。それが下山です。しかし修行に完成はありません。となれば、下山はまた新たな修行の第一歩、上山に他なりません。修行は一生、永遠なのです。珍重珍重。




  「ボーっと生きてんじゃねぇよ!」
            ~ チコちゃん ~

長寿の生き方 №506

 長寿の生き方
平成30年9月17日
  今日は敬老の日ですね。当山口県で今年度内に満百歳になる人は532人(男78人女454人)、百歳以上の人は1157人(男135人女1022人)だそうです。因みに下関市は百歳になる方が93人(男9人女84人)、百歳以上の方は281人(男26人女255人)だそうです。百歳以上の方は昨年比県で3名、市で2名減ですが百歳になる人は減ってはいません。

 上の数字を見ても年齢百歳は今後一層当たり前になるに違いありません。しかし、毎年申し上げていることですが長寿が幸せとは言えない時代になって自分自身がどう生きるかが益々大きな課題になって来たと言わざるを得ません。これは誰か他人が考えてくれることではありません。私も自分自身の問題として考えてみたいと思います。

  ①「そのまま」を生きる。生きているということは歳を取るということです。それが不可避の加齢(aging)であり、加齢による身体の変化も避けることは出来ません。むろん治る病は直すべきですし体力の維持に努めることも大切ですが、“アンチエイジング”という無駄な抵抗はせず年齢相応そのままに生きることが大事ではないでしょうか。          
②素食を味わう。素食とは肉類なし、野菜中心の食事を言います。今どき幾ら高齢者でも全く肉なしとはいきませんが野菜を多く摂ることは必要と思います。私も修行道場での食事はまさに素食でしたがそれで体力が落ちるということはありませんでした。宮沢賢治の「一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ」がそれだと思います。


    ③冥途の土産づくり。人みな70も半ばになれば行く末を思わずにはいられませんね。百歳まで生きる積りの方にはまだ二十年以上ありますが、どちらにしても残された時間をどのように過ごすかは変わりません。その時大切なことは「冥途の土産」づくりではないかと思います。よき体験とその感動こそが冥途の土産になるのではないでしょうか。
 
  「冥途の土産」に相応しい体験はボランティアだと思います。先達て周防大島で行方不明になった男の子を発見したスーパーボランティアさんのようにはいきませんが、小さなボランティアならできると思います。何人かでするのもいいですね。僅かなことでも人の役に立つ行動は心に豊かさを与えてくれるに違いありません。



「ボランティア 今日はどこまで 行ったやら」
                ~ ん? ~

存在者・金子兜太 №505


存在者・金子兜太
平成30年9月16日
  今年二月二十日、俳人の金子兜太さんが亡くなりました。98歳でした。俳句について何も知らない私は金子兜太という俳人がどんな人であったのか全く知りませんでしたが、訃報に続く追悼や評伝を読んでこのお方が平和と反戦の俳人であったことを知りました。金子さんの平和への思い、反戦の決意は戦争体験に寄っていたのです。
 戦後7011日から三年間、東京新聞と中日新聞に連載された「平和の俳句」は晩年の金子さんが一番大事にした仕事だったと言います。昭和30年刊の「少年」に「水脈の果て炎天の墓碑を置きて去る」という句がありますが、戦争中トラック島に赴任していた金子さんはそこで多くの兵士の非業の死を目の当たりにして反戦の決意をしたと言います。
 先月826日朝日新聞の投稿俳壇に何と金子兜太さんを詠んだ句が三句もありました。「炎天や兜太の水脈の真直ぐに」(北九州市・野崎 仁)/「蝉時雨兜太よ我も死まで生く」(船橋市・斉木直哉)/「九条の兜太をつれて浮いてこい」(札幌市・渡辺健一)の三句です。一句目は上述した「水脈の果て」を意識したものでしょう。しかし、同日三句には驚きました。

 しかし、考えれば金子兜太さんの平和への思いがそれほど強く多くの人に伝わっていたということでありましょう。三年前、国民の意に反した安保法がつくられようとしていた時、旧知の作家澤地久枝さんに頼まれて「アベ政治を許さない」と揮ごうしたのも戦後70年再び平和が脅かされているという危機感ゆえであったに違いありません。
 2015年、朝日賞受賞の時、金子さんは「存在者」という言葉で次のように挨拶されたと言います。「私は“存在者”というものの魅力を俳句に持ち込み、俳句を支えてきたと自負しています。存在者とは“そのまま”で生きている人間。いわば生の人間。率直にものを言う人たち。存在者として魅力のないものはダメだ。これが人間観の基本です」と。
 私はこの言葉を聞いて、金子さんがおっしゃる存在者が先達て私が申し上げた「四情発散」に通じるのではないかと思いました。人はみな生身です。生の人間は何も飾る必要がありません。そのまま、率直に生きればよいのです。金子さんは恐らくそのように生きられる社会こそ平和な社会と思われたに違いありません。合掌。



  曼殊沙華 どれも腹出し 秩父の子
                兜太