お遍路で考えたこと② 「旅慣れ」考 №608

お遍路で考えたこと②「旅慣れ」考

令和2年10月28日

 旅慣れている、という言葉がありますね。今回のお遍路もご一緒したKさんがその言葉にぴったりなのです。身のこなしが軽く即座の行動ができる方なのです。前々からそう思っていましたので今回その訳を伺いました。Kさんは学生時代の登山で旅慣れの術を学んだと言われるのです。なるほどと納得するものがありました。

 確かに登山では荷物を極力少なく軽くすることが必須でありましょう。同時に機敏な動作、素早い判断も出来なくてはなりません。それが習いとなれば自然に旅慣れするに違いありません。とすると、旅慣れは一朝一夕になるものではなく旅慣れになるためのトレーニングが必要ということになりますね。 

 実は上のこと、私も最初のお遍路の時いやというほど感じさせられました。バスの旅なら荷物をバスに置いておくことができますが、歩き遍路ではそれができません。欲張った衣類にかさんだ荷物の重さに閉口した記憶がありますが、旅となればどんな旅でも荷物は必要最少限が鉄則でありましょう。身軽に動けるということが旅の要件なのです。

 と考えて来て、これは旅だけでなく日常生活も同じことだと気づきました。私たちは特段必要ないものまで手にしていないでしょうか。そして一旦手に入れたものは使うことがなくても持ち続けていないでしょうか。断捨離してよいもの、すべきものを捨てることができずにいるのが私たちではないでしょうか。

 そして、これは終活につながることだと思います。いつでもさっと動けるように身軽になっておくこと。それには必要のないものを潔く捨離すること。日常のうちに旅慣れのトレーニングを重ねことが大切なのではないかと思うのです。旅ならば必要な持参品がありますが死出の旅には持っていけるものは何一つないのです。

 旅慣れの基本が荷物を少なくすること、身を軽くすることであるように終活の基本も必要ないものは捨てることなんですね。私たちが黄泉の国に行くとき自分にくっついてくるのは「善悪業等」だけ。捨離捨離致しましょう。

 

いつ死んでもありがとうや

         大西良慶

 

お遍路で考えたこと① 遍路は祈り №607

 お遍路で考えたこと① 遍路は祈り

令和2年10月23日

 先達て79日高知県のお遍路に行ってきました。今回のお遍路、実は3月に予定されていたのですがコロナのために行けなかったのです。今回はガイドさんつきのバス遍路でしたから歩き遍路をしてきた身には些か気が引ける思いもありましたがその半面、筋肉痛の自分にとってはバスだから参加できたという面もありました。という訳で、今回は長い道を歩きながら考えるということはありませんでしたがお詣りの寺々で思うことはありました。今日はそのうちの一つ、三日目の朝お詣りした33番雪蹊寺で思ったことをお聞きください。 

 前に申し上げたことがあったと思います。雪蹊寺の門前には山頭火の「人生即遍路」という言葉が碑になっています。私はこの碑を見る度に山頭火の心を思います。人生即遍路と言ったその時の山頭火にとって「遍路は祈り」であったに違いないと思うのです。漂泊同然の生活をしていた山頭火の胸に去来していたのは「人生は祈り」ではなかったかと思うのです。

 山頭火の生涯は平坦ではありませんでした。平凡な喜びや楽しみからはかけ離れていたと言ってもいいかも知れません。時には悲しみに打ちひしがれ時には後悔にさいなまれたに違いありません。だからこそ山頭火は我が身が生きてあることの不思議を思い、その不思議に感謝したに違いありません。それこそ祈りであったと思うのです。

 真の祈りは願いではありません。若い頃神秘学の先生が「祈りとはお日さまに朝東から登って下さいということ、川さん海に向かって流れて下さいということですよ」と言われるのを聴いてびっくりした記憶がありますが真の祈りは自分の願いではありません。願わなくても叶えられることを祈りとするのが祈りなのです。

 願わなくても叶えられることを祈るということは何でしょうか。それは自然の摂理と一体化することに違いありません。朝になれば日は東に登ります。川は言われなくとも海に向かって流れていきます。それが自然の摂理だからです。どうぞ皆さん、皆さんも自然の摂理に一体化する祈りをなさってください。

おんあろきゃそわか、なむあみだぶつ。

これらご真言も仏さまと一体化するための祈り言です。

「通勤ネコ」考 №606

  「通勤ネコ」考

 令和2年10月17日


 遥か以前のことになりますが確か週刊朝日に「デキゴトロジー」というコラムがあってそこに「通勤犬」なるイヌが紹介されたことがありました。ある家に飼われているイヌが昼間はよその家に行って日中一杯をそこで過ごし、夕方になるとまた飼われている家に帰ってくるという不思議な話でした。

 毎日通勤するという家が飼われている家と関係はなかったと思います。エサはどちらで食べていたのかは忘れました。日中過ごす家はただ過ごすだけであったように思います。ところで、何でその「通勤犬」のことを思い出したかと言いますと、いま寺に通勤犬ならぬ通勤ネコがいるからなんです。

 寺のネコの通勤の理由は分かっています。エサです。春ごろだったでしょうか。たまたま来ていたノラネコにエサをやったら、そのネコがエサ目当てに来るようになり、今では毎日来るだけでなく日中のんびりとくつろぎの時を持つまでになりました。夜はどこかに帰るのですからまさに通勤ネコでありましょう。

 その通勤ネコを見ていて私がいま思っていることは、そのネコの行動は何によっているのかということです。ネコも朝目覚めた時その日の予定を思っているのでしょうか。どうもそれはないように思います。まして一週間の予定を意識しているとは思えません。とすると、ネコの行動はその時々の衝動なのでしょうか。 

 野生生物に取っての最大事は生存、エサの確保でありましょう。野生のライオンは空腹でなければ狩りはしないと言います。となれば半野生生物のノラネコも一番の関心事はエサでありましょう。ノラネコにとって日々の行動は本能的なエサ探しであるに違いありません。それはそのまま本能的な瞬間を生きていると言えないでしょうか。

 今を生きる、という言葉があります。この言葉は自分の状況を見極めて生きよということですが、その生は実は一瞬の積み重ねです。ノラネコが瞬間を生きているように私たちもまた瞬間を生きているというのが真実ではないでしょうか。しかし、ネコとは違って私たちの瞬間は意識的でなければならないと思うのです。

一瞬の 積み重なりの 一日が

 やがて一年 一生になる