「春もみじ」幻想 №584


「春もみじ」幻想
令和2年4月18日


 紅葉と言えば秋、と思うのが普通ですが、と言って紅葉は秋突然に現れるものではありませんよね。紅葉の木は春夏秋冬一年中その場所に立っています。紅葉は秋とだけ思い込んでいるならそれは我見に過ぎません。実は自分自身がその我見にとらわれていることを思ってつい先日春の紅葉はどんなかと訪ねてみたのです。

 行ったのは私が毎年11月に訪れている隠れた紅葉名所、俵山の西念寺さんです。行って驚きました。そこには秋とは全く趣きを異にした景色がありました。紅葉はむろん他の木々の様子、明るさが秋とは全く別のものでした。拙詠を披露しながら「春もみじ」に感じたことを申し上げたいと思います。

     息を呑む 若葉の緑 清くして この一瞬が 命なりけり

 いつもの紅葉の谷に足を踏み入れた時、真っ先に目に入ったのは紅葉の若葉の清々しさでした。透き通るような清らかな美しさにハッとする思いがありました。そのハッとした瞬間にこれが命という思いがしました。私たち生きているものは一瞬一瞬が命だと思います。

     ひらひらと 舞うチョウのごと 桜散る 静かに過ぎる 春の日の午後  

 これまでその紅葉の谷に桜があることを知らずにいました。その一本の桜が花を散らしていました。桜の花びらはまるで生きている小さなチョウのようです。ひらひらと思いもしない方向に散っていきます。静かな静かな春の午後でした。

     陽を浴びる もみじの小枝 揺らしゆく やさしく甘い 春のそよかぜ  

 谷の大きなケヤキの木二本がまだ葉を繁らせていなかったからか、その日は秋とは違って明るい感じがしました。春の日差しをいっぱいに浴びた小枝を揺らして春風が通り過ぎていきます。春風が甘く感じられることを私は初めて知りました。     

     こんなとこ 崖の岩間に ただ二本 シャガ咲いている こんなところに

 崖の岩の間にシャガが二本咲いていました。その場所は養分が足りないのでありましょう。その二本のシャガは丈も短かく花も小さめでした。でも「置かれた場所で咲く」という必死の健気さを感じさせてくれました。


同じことは二度とない。
だから、今という時を大切にする。
         渡辺和子


追悼宮城まり子さん №583

追悼宮城まり子さん 
令和2 4 17

 先月321日、宮城まり子さんが亡くなりました。93歳。謹んで哀悼の意を表します。毎日新聞に評伝を寄せられた藤原章生さんによれば「一瞬にして人を引きつける優しさがあふれる  人」であり「晩年になっても子供のように喜怒哀楽をはっきり表現する無邪気さ」を持っていた方だったと言います。まさにその通りの方だったのでありましょう。

 また多才にして交友の広かった方でもありました。歌手、ミュージカル女優、映画俳優並びに監督、ねむの木学園創設者としてどの方面でも縦横の活躍をされましたし、交友では上皇ご夫妻と40年以上の親交をされました。作家吉行淳之介さんとは吉行さんが70歳で亡くなるまでパートナー関係を続けられました。

 振り返って人それぞれの人生で誰に逢うか何に遇うかがその人の人生を決めることがあると思いますが、宮城まり子さんはまさに歌と人の出会いによって人生を歩んでこられたのでありましょう。中でも私はその出会いの一番が「ガード下の靴みがき」の歌であったと思います。この歌に出会うことがなければ「宮城まり子」はなかったに違いありません。

 作詞宮川哲夫・作曲利根一郎の「ガード下の靴みがき」は1955年に宮城まり子さんが歌って大ヒットしましたが、後年、宮城さんは「この歌でいろんな子どもたちがいることを知りました。この歌は生き方を変えてくれた思い出の歌です」と言い、ねむの木学園の構想につながったことを述懐されていると言います。その通りだったのでありましょう。

 私はこの「ガード下の靴みがき」は曲もさることながら歌詞に大きな意味があると思います。まだ戦後10年。人々は貧しさの中にありました。貧しい子どもが巷に溢れていました。この時代、そして宮川哲夫さんだったからこそ夕方になっても帰れない靴みがきの少年、寒さとひもじさに耐える少年たちを詞にし得たのだと思います。。

 宮城まり子さんはこの「ガード下の靴みがき」の歌の心と飢えと寒さに震える少年たちを自分の心身にすることができました。それが後年、夢のない子に夢を与える「ねむの木学園」の創設になりました。私は改めて思います。私たちはそして日本はいま子どもたちに夢を与えられているだろうかと。瞑目合掌。


 
風の寒さや ひもじさにゃ 
 慣れているから 泣かないが 
 ああ夢のない身が つらいのさ 
    「ガード下の靴みがき」2