年々歳々 No.126

平成24年1月17日

 年々歳々


       厳寒早暁満山霜    寒中の朝庭中の霜

       西天残月澄蒼々    澄んで気高き名残り月

       年々歳々雖相似    確か去年も見た思い

       寒月示現観音相    寒さも月も観音菩薩



 また今年も初観音。観音様一年の始まりです。いまは小寒ですが間もなく大寒、厳しい寒さの時期が続きます。上の詩はそのいまを詠みました。日の出近い明け方、あたりが白み始める頃、西の空に残った月はまだ皓々と輝いています。庭は一面真っ白な霜。凍てつく寒さの中で見る神々しい月はまさに仏、観音様のお姿です。

 季節というのは不思議ですね。この寒さの冬が過ぎれば木々は芽を吹き花が咲きます。爛漫の花の季節は人の心を浮き立たせますが、夏ともなれば地を焦がす炎熱、猛暑酷暑に気息奄々となります。涼風に救われる秋も深まれば木々の葉は紅また黄に染まって彩る錦を愛でるも束の間、紅葉を散らして冬の寒さを迎えます。私たちは毎年その繰り返しの中に生きています。

 上の詩に使った年々歳々という言葉は唐代の詩人劉廷芝の「白頭を悲しむ翁に代る」にある有名な「年々歳々花相似たり 歳々年々人同じからず」ですが、劉廷芝がこの詩で述べたのも季節の移ろい、無常の嘆きです。紅顔の美少年も年を取れば白頭を悲しむ翁にならざるを得ません。時が移るとは自分が移るということなのです。

 しかし、だからと言って悲しむには及びません。季節の移ろい、時の変化こそ真実なのです。その移ろい、無常の中にこそ真実があるのです。凍てつきの中の霜、西天の残月。いえいえそればかりではありません。見るもの聞くものそのすべてに真実が表われているのです。そして、そうなのです。私たち自身が真実なのです。道元禅師は「いまのなんぢいまのわれ、盡十方界眞實人體なる人なり」と言われました。真実を生きませう。

菩薩実在 No.125

平成24年1月2日

菩薩実在


 去年の、と言うにはまだ生々しすぎる昨年三月の東日本大震災・大津波ですが、あの震災で九死に一生を得た人には不思議としか言い得ない体験を持った方がおいでです。昨年ボランティアに行った時、私もそういう幾つかの話を聴きましたが、つい先日また福島県南相馬市の岩屋寺様から誠に不思議な話を伺いました。

 岩屋寺さんは私が19歳の時の自転車旅行の折お世話になったお寺ですが、寺のある南相馬市は今回の津波で多くの家が流され、沢山の人が亡くなるという大変な被害を受けたところです。岩屋寺さんは寺は無事でしたが、震災の後ご住職は葬場で火葬を仕切る毎日だったそうです。悲しみをよそに火葬に明け暮れる日はどんなに大変だったろうと思います。

 その岩屋寺さんが先日お手紙を下さいました。そのお手紙に「太平洋から百数十メートル先に建っていた小さな虚空蔵堂だけが無事で、ご本尊様が岩屋寺にご遷座されました。土で作った古い仏像です。虚空蔵様より上の家が十数軒流されたのに不思議であります」とありました。そのお堂は十数年前から岩屋寺様が祭礼をしているのだそうです。

 虚空蔵菩薩というのはその名の通り、虚空のように広大無辺の福徳・智慧を蔵して衆生の諸願を成就させるという菩薩様ですが、そのお堂だけがどうして津波に呑みこまれなかったのか、不思議としか言いようがありません。「たまたま」「偶然」としても、何故、たまたま偶然に、と思うとやはり不思議です。その上の家が流されているというのですから。

 私はその不思議こそ神仏の実在を象徴するものだと思います。神様仏様を信じ、如在、在(いま)ますが如くにお祀りすることがその奇跡を生んだのだと思います。 この不思議に出会った地域の方々は改めて虚空蔵菩薩様の実在を確信したことでありましょう。そしてこれから益々その虚空蔵菩薩信仰を深めていくことでありましょう。

 どうぞ皆さま、皆さまも目に見えない存在、大いなる存在に祈りを捧げて下さい。信あるところにこそ神仏が実在し奇跡が顕現されるのです。

法要・祈祷ご案内

初観音     1月 17日

星祭り      2月  3日

花祭り      4月  8日

水子供養    5月 17日

火除け     8月 10日

交通安全   11月 17日


  ※ 観音様の会、毎月17日10時から

  ※ 坐禅会、毎月第二金曜日  夜7時から。


※健康祈願・金神除け・除病・家内安全・水子供養、その他のご祈祷を承っております。

住所・電話・FAXのご案内

観音寺


住所     : 〒750-1142
             下関市小月本町1丁目5-8

TEL・FAX : 083-282-0446

新しき年に No.124

平成24年 1月 1日

新しき年に


   望遠山不見眼前     隣の芝生は美しい

   惑迷到処何処辺     自分の芝生は草だらけ

   看々茶飯日常底     思い直して草むしり

   生死只存一息禅     おお、何とよい気持ち



 新しい年になりました。昨年が余りにも大変な年であっただけに特別な感慨をもって新年をお迎えになった方も多いと思います。せめてあのような大災害は来ないでほしいというのがお互い正直な気持ちではないでしょうか。私も切にそれを望んでいます。人々に多くの苦しみと悲しみを与える災害はどうか来ないでほしいと思います。

 しかし、それと同時に私たちが今までの考えを改め、生活を見直す必要も思わない訳にはいきません。思えば、私たちはこれまでより便利より豊かな生活を追い求めて来たのではないでしょうか。しかし、それらは多くの危険と隣り合わせでありました。豊かで便利な生活を求めるあまり振り返って足下を見ることをしてこなかったと思います。

 仏教の根本は自己の究明にあります。人間とは何かという問いを問い続けることにあります。そしてその問いの中で少欲知足を学び、少しでもそれを生活の中に生かしていこうとすることにあります。あり余るものに囲まれた生活が真の豊かさではありません。豪華な旅行や遊興三昧が心の満足をもたらすとは限りません。

 グルメの追求が食の真の豊かさではありません。「賢なるかな回や、一箪の食(し)一瓢の飲、陋巷(ろうこう)に在り」と言われた孔子の一番弟子顔回の如くに清貧に甘んじることは出来ずとも自らの生活を振り返り、与えられたもの、僅かなものの中に真の豊かさを見出し、それを楽しんで生きることを心がけていきたいと思います。



  あらたまの 観音さまに 願ひ込め 立てたる香の 煙直(す)ぐなり