「スマホを置いてお茶にしよ」 №498

「スマホを置いてお茶にしよ」 
平成30年7月20日

 いま小中高生、取り分け中高生に大変懸念される心配があります。それはスマホ・ネット依存です。国立病院機構・久里浜医療センターには2011年から「ネット依存治療部門」が設けられていますが、ここを訪れる患者の3分の2が中学生高校生。最近は小学生さらには3040代の社会人も増えているのだそうです。

 このネット依存を称して最近「デジタル・ヘロイン」とか「亡国の依存症」という呼び方がされていますが事態はそこまで深刻化しているということでありましょう。スマホ依存が進んだ子どもは朝から深夜までスマホを離せなくなり、さらに進めば暴言・暴力になってしまうというのですからまさに“亡国のヘロイン”です。

 いまこのように深刻な事態にありながら行政の問題ではないというのか国を初め県や市が積極的な対応を何もしていないというのが実情でありましょう。朝起きてスマホ、通学中も授業中もスマホ、家に帰ってスマホ、食事も風呂もせず深夜までスマホ、というスマホ依存が進んだ子どもを放置したままというのが現実なのです。

 この現実をどのように改善したらよいのでしょうか。当の若い人への私の提案が上に記した「スマホを置いてお茶にしよ」です。ネット依存を引き起こす一つがSNS(ソーシャルネットワーキング・サービス)と呼ばれるものですが、これに費やす時間の一部を友人や家族とのお茶の時間にして貰いたいのです。

 SNS依存は女性がなりやすくゲーム依存は男性がなりやすい傾向にあると言われますが、どちらにしても私はその依存が人間の「生」のコミュニケーションを阻害してしまうことに問題があると思います。スマホを介しての人間関係は正しい人間関係ではありません。互いに直に生に喜怒哀楽を感じてこそ人間の人間関係なのです。

 中高生でもやるべきことややりたいことがはっきりしている子はSNSやゲームにはまらないと言います。意味合いはちょっと違いますが、スマホを置いてお茶を一服のひとときに互いに顔を見て話をする楽しさを知ってくれたらスマホ依存にならずに済むのではないでしょうか。
 
 
  スマホという道具を使うのが人間。
 人間は道具のスマホに使われてはなりませぬ。
 
 

祈りを下さい №497

祈りを下さい
平成30年7月18日

 日本社会が狂ってしまった。日本人が狂ってしまった。ここ最近、そう思うしかないような痛ましい殺人事件が相次ぎました。先達てこのたよりで取り上げた船戸結愛ちゃんの虐待死。下校途中の女子小学生が殺害されてその遺体が線路に遺棄された事件、女性看護師がネットの呼びかけに応じた男に拉致されて殺された事件。そして警察官殺害事件です。

 これら一連の殺人事件に共通するのは被害者に殺される理由が全くないことです。虐待死の結愛ちゃんは意味合いが異なりますが、その他の例は理由があって殺されたのではありません。犯人の身勝手な短絡的恣意的行動によるものです。その殺人に至る行動は常軌を逸しているとしか言えずまさに狂気の沙汰そのものです。

 その言わば“狂人”によって殺された人たちに等しく共通する思いは怒りと恨みではないでしょうか。殺される理由なく殺されれば誰しも怒りを持つのは当然でありましょう。これからまだ長い歳月を生きてしたいことしなければならないことが沢山あったはずの命を突然絶たれた悔しさが怒りと恨みにならないはずはありません。

 そう思うと今この国の霊的環境は大変な危機的状況に陥っていると思われてなりません。怒りと恨みを持った魂はまずその魂自身が次の生まれ変わりに困難を抱えることになります。同時にその怒りと恨みの思いが霊的世界に悪影響をもたらします。それはこの人間世界にも及ぶ悪影響なのです。

 この時、私たちに出来ることは祈りです。祈ることです。悲運非業の死を遂げた人に対してひたすら祈りの力を送りその力によって非業の死の怒りと恨みを乗り越えて貰うことです。非業の死を遂げた人の怒りと恨みを解消するにはこれしかありません。いつも申し上げておりますように祈りは力なのです。

 改めて思います。いま私たちは霊的に大変危機的な状況になっています。この状態を放置すれば危機的状況は益々深まってしまうのです。皆さまにお願いです。どうぞ非業の死を遂げた人たちが怒りと恨みを乗り越えて来世を得ることが出来ますよう祈りを捧げて下さい。非業の人たちに祈りを下さい。
 
 
恩讐の彼方に新生の道あり

仏法と世法 №496

仏法と世法
平成30年7月17日

 表題の仏法とは仏教の戒律・仏制。お釈迦さまが決めた規範を言います。それに対して世法とは世間一般に通用している習わし、常識と言ってよいものでしょう。この仏法と世法、9割方は一致しているのではないでしょうか。しかし、時にこの仏法と世法が一致しないこともあります。その例が坐禅会で読んでいる「正法眼蔵随聞記」に出て来ました。

 その随聞記、巻13-1(先師全和尚入宋せんとせし時)がそれです。ここで言う全和尚とは道元禅師と一緒に宋の国に渡った明全(みょうぜん)さんのことです。道元さんと明全さんがまさに宋の国に行こうとしている時、明全さんのお師匠さん、死の床に瀕した明融(みょうゆう)阿闍梨が頼りにしている明全さんに自分の看取りを懇願されたのです。

 明全さんは8歳で親元を離れて以後、明融阿闍梨に育てられたのですから明融さんは親以上に大恩のあるお方です。その方が死に瀕し明全さんに看取りを願っているのですから宋への出発を前にしてどうしたらよいか悩むのは当然でありましょう。明全さんは自分の弟子や兄弟弟子を集めて考えを聴きました。

 相談を受けた弟子たちは一様にこぞって師匠阿闍梨を看取ることを勧めます。それが師匠の仰せにもそむかず重恩を忘れないことだというのです。この時末席にいた若き道元さんも「仏法の悟りがもうこのままでよいのだとお思いでしたらお留まりなさるのがよろしゅうございましょう」と言われたそうです。

 しかし、明全さんの考えは反対でした。「どの道死ぬ人ならば私が留まって看病しても命が伸びる訳でもなく輪廻の苦を離れられる訳でもない。自分が看病すれば師匠は喜んでくれるかも知れないが、師匠は弟子の求法を妨げ罪業の因縁をつくるかも知れない。一人の人のために時を無駄に過ごすことは仏の心にかなうはずがない」と言われたのです。

 明全さんはその言葉通りに宋に赴かれましたが皆さんはこの話をどうお考えでしょうか。世法で言えば明全さんは何と恩知らずの薄情者ということになりましょう。しかし、明全さんは悩みぬかれたはずです。そして判断の決め手が「仏の心にかなうかどうか」でありました。それが仏法。仏法は時に非情でもあります。


  生きることは 神仏の使命を果たすこと
  生まれてきた者には 必ず何かの使命がある
         <生きることは>坂村真民
 

 
 

 

沖縄慰霊の日に №495

沖縄慰霊の日に
平成30年7月9日

 623日は今年73年目になる「沖縄慰霊の日」でした。この日今年も沖縄では全戦没者追悼式が行われました。沖縄戦では実に20万人もの人が犠牲になりましたが、このうち半数10万にんは軍人軍属以外の住民でした。沖縄戦ではひめゆり学徒隊などのように男女中学校生徒も学徒として動員され多くの若い命が奪われたのです。

 しかし、戦争が終わっても沖縄には平和は戻りませんでした。施政権はアメリカが握り、日米地位協定によって沖縄の人々は戦後も忍従と苦難の日々を強いられることになったのです。沖縄の人々は沖縄戦で多くの人を失い、戦後はまた日本人全員が負うべき「敗戦」の苦しみを押しつけられたと言って過言ではありません。

翁長知事は今年の追悼式で「悲惨な体験から戦争の愚かさ、命の尊さという教訓を学び平和を希求する“沖縄のこころ”を大事に今日を生きています」と言われました。誠にその通りと思います。私たち日本人は沖縄の人の「沖縄のこころ」を共に生きなければなりません。それなくして悲惨な戦争に学ぶものはありません。

しかし、翻って私たちは「沖縄のこころ」に寄り添っているでしょうか。否々現実はむしろ真逆ではないでしょうか。端的な例が普天間飛行場の辺野古移設問題です。これが露わになってから沖縄の人は一貫して移設に反対しています。しかし、国・政府は「これしかない」という言い方で沖縄の声を聴こうとしません。

安倍首相はこの日の挨拶の中で基地負担軽減に触れて「できることはすべて行う」と言いました。ならば提案があります。在沖米軍基地の使用期限を設けるべきです。これから最長30年とし、この間に日本が平和外交によって世界に働きかけ軍事基地の必要がない世界を達成すべきです。我が国がすべきことはそのことではないでしょうか。

むろんアメリカは反対するでありましょう。しかし、こと平和に関してはこれから日本が世界を主導する立場にならなくてはなりません。もはや地球は軍備拡張でも核の時代でもありません。全世界が一緒になって地球の問題に取り組まなければならないのです。その先頭に立つべき国が日本なのです。
 
守れ平和!
守れ宇宙船地球号!
 

 

お遍路で考えたこと② 遊行期予習 №494

お遍路で考えたこと② 遊行期予習
平成30年7月8日

 今回の香川県お遍路、私は第75番札所善通寺から80番国分寺までの6カ寺でした。これまでに比べると札所の数も歩行距離も格段に少なくて楽勝のはずでしたが、実際はそうは問屋が…、でした。やっぱり気になっていた筋肉痛が騒ぎ出して最後の数キロはちょうど休憩場所にあった駅から電車でキセルをさせて貰いました。

     梅雨の間の日照りの道を行くわれに何と涼しき一陣の風

     山頭火歌いし如くふたたびは見ることのない山遠ざかる

     自らが望んで生まれてきたんだと思いはしてもなお霧の中

 今回のお遍路はお天気が心配でしたが、結果的には晴れて暑いほどでした。でも時折さっと吹く風がむしろ冷たいほどに快くて助かりました。有難かったです。山頭火に「また見ることもない山が遠ざかる」という句がありますが、お遍路に行くとその思いが実感されます。あるいは再び見ることがあってもその時は「一期一会」に違いありません。

 三首目。歩いていると様々なことが思われます。前号でシュタイナーが「我々の地上の人生体験は我々自身があらかじめ用意しておいたものだ」と言っていることを紹介しましたが、その通りであるなら人はみな自ら望んで生まれて来たことになります。しかし、そうは思っても現実を素直に認めることは難しいのが本音ではないでしょうか。

 インドには人生を学生期、家長期、林住期、遊行期の四つに分けて考える「四住期」という考えがあります。この考えからすれば私は疾うに遊行期になっています。遊行期とは文字通りあちこち巡り歩く時です。人生の最後の時に巡り歩くというのはどんな意味を持っているのか、そう考えたインド人に不思議を覚えます。

 痛む足を引きずりながら歩いてつくづく思いました。私がこの先この遊行期を文字通りに過ごすことがあるなら今回のお遍路はその予習ではないかと。これから先体力は衰える一方にあって歩くことが困難になるのはむろんです。恐らくは今回のように足を引きずりながら歩くことになりましょう。その予習を実感させられたお遍路でした。

どうしようもないわたしが歩いてゐる
           ~山頭火~

お遍路で考えたこと① 結愛(ゆあ)ちゃんのこと №493

お遍路で考えたこと① 結愛(ゆあ)ちゃんのこと
平成30年7月1日

 先月6810日、香川県にお遍路に行ってきました。今回は直前に行かれなくなる方が増えて結局3人だけになりました。実は私も筋肉痛のことがあって行かれるかどうかギリギリまで不安だったのですが何とか参加することが出来ました。でも今回の私には筋肉痛のほかにもう一つ行く前から憂鬱なことがありました。

 それは結愛ちゃん、船戸結愛ちゃんの事件でした。両親から心身の虐待を受け食べ物さえろくに与えられずに亡くなったという結愛ちゃんに不憫の思いを募らせた方も多かったに違いありません。強要されて覚えたひらがなで「きょうよりかあしたはできるようにするからもうおねがいゆるしてゆるしてください」と書いた切なさに胸が詰まります。

 お遍路の初日二日、私の胸に去来したのはその結愛ちゃんのことでした。ルドルフ・シュタイナーは「我々の地上の人生体験は我々自身があらかじめ用意して置いたものだ」と言います。その考えに従えば結愛ちゃんは虐待死を自ら決めて生まれたことになります。しかし、今度ばかりは私もそれに従う気にはなれませんでした。

 私は結愛ちゃんは犯罪者、父親に殺されたのだと思います。犯罪者は人間についての理解が足りないまま生まれてくると言われますが父親はその類でありましょう。だからこそ5歳の幼女に信じられぬ虐待をしたのだと思います。結愛ちゃんは父親に殺されたのです。

 とすると、結愛ちゃんの死に救いがありません。同じ死でも親の庇護のもとに亡くなるのであれば救われます。しかし、そうでなければ救いがありません。私が最もつらく思ったのはそのことでした。結愛ちゃんに恨みの心しかなければその恨みの心が新しい生まれ変わりに大きな障害になってしまうからです。


 お遍路後の6月の観音様の会では結愛ちゃんの慰霊供養をしてお集りの皆さんに祈りを捧げて頂きました。結愛ちゃんが人を恨むことなく新しい生まれ変わりのために精進し、来世には幼い子どもを守る人として活躍してくれることを願って止みません。どうぞ皆さまも結愛ちゃんの幸せな後生を祈ってあげて下さい。
 

   一つ積んでは父のため
   二つ積んでは母のため
   三つ積んでは 
   ふる里の兄弟我が身と回向して…
            <地蔵和讃>