売らせない買わせない №492

売らせない買わせない
平成30年6月17日

 人は誰しも自分がしたいこと、しなければならないことを達成するために人間に生まれてきます。その目的なしに生まれてくることはありません。その達成の過程には悲しいことや苦しいことがあるかも知れません。しかし、それが目的の達成のために必要なことであれば人はその悲しみや苦しみも甘んじて忍ぶでありましょう。

 ヌイという女の子がいました。ヌイの家は貧しく満足に食べることも出来ませんでした。ある日村に一人の男がやってきて「都会にはいい仕事がある」と言いました。ヌイは家族を助けるため都会に行くことを決め、両親は男から3万円を受け取りました。しかし、ヌイが連れていかれたのは売春宿でした。ヌイの毎日は無理やり客を取らされる苦痛の日になりました。

 逃げることも出来ないその苦しみの中でヌイは死の病であったエイズに冒され、今際(いまわ)に一言「学校に行って勉強してみたかった」と言って亡くなりました。ヌイ20歳でした。家族を助けるためだった少女ヌイの決心。しかし実際は騙されて僅か3万円で買われた一生。苦難のうちに終わったヌイの人生に瞑目しかありません。

 いまから16年前、この話に衝撃を受けた一人の女子学生が「だまされて売られる子どもを守りたい」とカンボジアに渡り、最貧困の女性への教育と雇用の提供に尽力し、子どもが売られることを防ぐ活動を続けてこられました。その女子学生がいま「子どもが売られない世界をつくる」NPO法人「かものはしプロジェクト」代表、村田早耶香さんです。

 村田さんらの活動によってカンボジアではだまされて売られる子どもが激減し同時に幼女を性の対象にする買春も減ってほぼ所期の目的を達成することが出来たそうです。そして今は少女の人身売買がいまだに行われているインドで被害者の心の傷を回復させる取り組みと加害者を処罰する仕組みをつくるプロジェクトをされているそうです。

 私は恥ずかしながらこれらのことを全く知りませんでした。冒頭申し上げましたように人は人に生まれてしたいと思ったこと、しなければならないと思ったことに努力する人生でなければなりません。心ある皆さん、どうぞ「かものはしプロジェクト」(Tel03-6277-2419)の活動にご協力下さい。


   「かものはしプロジェクト」の活動こそ
    ノーベル平和賞だと思うニャーン

寅さんを生きる №491

寅さんを生きる
平成30年6月16日

 「私生まれも育ちも葛飾柴又。帝釈天で産湯を使い姓は車名は寅次郎。人呼んでフーテンの寅と発します」。ご存知映画「男はつらいよ」の寅さんの口上です。私事で恐縮ですが、私30代初めの頃、千葉県松戸市の矢切に住んでいましたので「矢切の渡し」の対岸にある柴又は馴染みのある懐かしいところなのです。

 いやまた何でこんな話かと言いますと、今年は「男はつらいよ」の原点になった連続ドラマ(フジテレビ)放映から50年。そして寅さん役を演じた渥美清さん生誕90年に当たるのだそうです。しかし、この映画48作目、最後になった9512月の「寅次郎紅の花」から23年も経ったいまでは若い人の大半は「寅さん?何それ」かも知れませんね。

 でも、この映画が好きでよく観た私はいま単に懐かしさだけでなく改めて寅さん的人生の大切さを思うのです。先日のこのたより(四情発散)で喜怒哀楽に素直に生きることの大切さを申し上げましたが、考えるとまさに寅さんこそ喜怒哀楽に素直に生きた人と言えるのではないでしょうか。それがこの映画の面白い魅力であったのだと思います。

 喜怒哀楽に生きる寅さんは設定上テキ屋稼業がピッタリですが、それを演じた渥美さんがテキ屋役にうってつけでした。山田監督は渥美さんのテキ屋の口上の鮮やかさに感心して主人公の仕事をテキ屋に決めたのだそうですが、何と渥美さんは少年時代、当時御徒町に大勢いたテキ屋の口上に魅かれて一生懸命暗記したというのです。

 山田さんは寅さんという人物を「いつまでも青春期にとどまっているというちょっと幼稚な男なのでしょうね」と言われていますが、だからこそ素直に笑ったり泣いたり怒ったりすることができたのでしょう。「いつまでも青春」は青臭いと半分バカにもされますが、渥美さんはそのいつまでも青春の寅さんを見事に演じられました。

 仏教では「ありのまま・あるがまま」を大切にします。ありのまま・あるがまま、とは飾らないということです。背伸びせず卑下もしない。それは自分の心に素直に生きるということです。しかし、かっこよく見せたいとか恥ずかしいという気持ちがその邪魔になります。人生、寅さんがモデルですね~。
 
   そのままでいいがな
         ~相田みつを~
 

 

身体感覚 №490

身体感覚
平成30年6月7日

 前号「四情発散」で髙村薫さんが「失われた“身体性”」ということを言われていることをご紹介しましたが、何とその後、心療内科医・海原純子さんがやはり新聞に「身体感覚」と題する一文(毎日新聞H30.5.13)を寄せられていることを知りました。海原さんが言われていることも髙村さんが言われていることそのものなのです。

 海原さんはある理系の国立大学を卒業した若者と話していて驚いたことがあったそうです。その若者、食事はタンパク質、炭水化物、食物繊維、ビタミン等という栄養バランスだけを考えてメニューを選ぶと言い、食べたいものなどを思い浮かべることは全然なく、まして自分で食事を作ったり食材を選んだりすることは全くない、というのだそうです。

 確かに食事を作るどころか食べたいと思うものもないと聞けばびっくりですが、海原さんは「自分が何を食べたいか、言い換えれば、自分の身体が何を必要としているかという身体感覚がない、わからないことには問題がある」と言われるのです。身体感覚がなくなっているために身体が発しているサインに気づかなくなると言うのです。

 海原さんはいま身体感覚が希薄になっている人が増えている気がすると言います。そしてその理由に「現代社会が自分の内側より外側に対して集中することが多い」ことを上げ、その原因にテレビやSNS、パソコン・スマホ操作を指摘されます。これって髙村さんがおっしゃることと全く同じではありませんか。

 海原さんは「身体に対する気づきは自分という存在そのものに対する気づき」であり、自分を保つことに必要なその気づきを得るためには「ほんの少しの時間、外からの刺激を断ち、自分が呼吸していることから始められる」と言われます。呼吸を意識する。これってまさに私たちの坐禅そのものではありませんか。

 余談ながら、前述の若者が食事を作ることに全く関心がないというのは間違いなく少年時にその体験がなかったからだと思います。改めて小さい時の体験が如何に大切かと思わざるを得ません。どうぞ皆さん、お孫さんひ孫さんと日常の掃除洗濯、そして調理を一緒にして下さい。それがお孫さんひ孫さんの生きる力になります。
   
  学ぶは真似ぶ。つまりは体験。

四情発散 №489

四情発散
平成30年6月6日
 いつでしたか、私たち日本人が泣かなくなったということを昭和の歌謡曲で振り返ってみたことがありましたね。その時思ったことは昭和30年代までの私たちはよく泣いていたのではないかということ。そして昭和40年代になると日本人はあまり泣かなくなり、泣くにしても声をあげて泣くことが少なくなったのではないかということでした。

 その折、申し上げたかどうか、私は私たち日本人が平成になってロボット化しているのではないかという気がしてならないのです。ここに言うロボットとは感情を持たないということ。ロボット化とは私たちが感情的でなくなり感情を露わにすることをしなくなる、もしくは露わにすることが出来なくなるという意味です。

この私の思いが僅かにでも当たっているとしたら人間としてそれは決して正しいあり方とは思えません。人間は基本的に生物です。感情を持った動物です。表題の「四情」は喜怒哀楽という意味の私の勝手な造語ですが、その喜怒哀楽を持った動物である人間がその感情の表出をしなくなったら“人間失格”ではないでしょうか。

 そうしたら先日の毎日新聞(H30.6.1)に作家の髙村薫さんが「失われた“身体性”」という一文を寄せられていました。髙村さんは「平成になって世界で一般化したネット社会のツール、SNSやゲーム、スマートフォンなどが地球規模、人類規模での“身体性の喪失”」をもたらしたと言われるのです。

 「ネット社会の拡大で現実と仮想の境がなくなって失われた身体性」について髙村さんは「自分自身に肉体があるのだから家族にも隣人にも世界70億の人にも肉体があるということを再認識する新たな理性が必要だ」とし「一人ひとりが自分の身体性と最低限付き合い、現実の世界の面倒くささと向き合う覚悟」の必要性を言われています。


 私はこの髙村さんのお考えに全く同感です。私流に言えば身体性とは四情、喜怒哀楽です。感情に素直に生きるということです。嬉しい時は笑い悲しい時は泣き悔しい時は怒る。感情に素直に生きることこそ動物としての人間のあり方ではないでしょうか。どうぞ皆さん、思い切り笑って泣いて怒って下さい。
 

  皆の衆 皆の衆 
 嬉しかったら腹から笑え
 悲しかったら泣けばよい
      <皆の衆・村田英雄>