この一年 №710

  この一年

令和4年12月23日

令和4年も残すところ一旬。この一年を振り返ると今年も残念なこと悲しいこと悔しいこと怒りに堪えないことばかりが思い出されます。分けてもその筆頭はロシアのウクライナ軍事侵攻。二月以来すでに10か月になりますがいまだに停戦の兆しさえ見出せていません。無力な私たちは悔しく悲しい思いの中でウクライナの平和を祈るばかりです。

 いま世界国家は民主主義国家と独裁国家に分断しつつあると思います。天与の権利である人権を尊重する国家と人権を無視する専制的強権国家に分かれていると思います。日本やアメリカ、EU諸国などが民主主義国家であるのに対してロシア中国ミャンマーアフガニスタンなどが対する一方の国と言えるでありましょう。

21世紀も四半世紀になろうとする今人類はどうして共存ができないのでしょうか。いま世界人類は未来の分かれ道に立っていると思います。平和と希望の未来をつくるために古い政治家を一掃しなければなりません。私たちが新しい感覚を持った若い指導者を育てなければなりません。今年はそのことを痛切に思いました。

 今年は旧統一教会の問題も露わになりましたが、これにかかわりを持った政治家はみんな議員になりたい大臣になりたい首相になりたいという思いだけの人間なのでしょう。そんな連中は政治家の名に値しません。上に述べた古い政治家よりさらに意識の低い人間です。私たちは先ずこれらの人間を一掃することから始めなければなりません。

 今年も小さな子の悲しい事件が後を絶ちませんでした。9月、静岡県牧之原市で通園バスに取り残され熱中症で亡くなった子。昨年同じ事故があったにもかかわらずのことに怒りを禁じえません。その子がいないことに気づく機会は何度もあっただけに無念この上ありません。プロ意識以前の問題でありましょう。


 この一年を振り返り日本という国を考えていると、国のあり方のよしあしは巡り巡って自分、私たち国民に返ってくると思わざるを得ません。日本を世界に誇れる国にするかしないか、私たちが幸せを思える国にできるかできないかは結局のところ、私たち自身にかかっているのだと思います。


「平和をあなたにもたらすことができるのは、

  あなただけだ」

             エマソン

障害が持つ意味 №709

 障害が持つ意味

令和4年12月17日

人間て不思議なものだと思います。障害児と言われる子どもたちの中にはその障害の代償のように特異な才能を持っている子が珍しくありません。私が養護学校に勤務している時にもそういう子どもたちに何人も会いました。まるでリズムボックスのように両手で様々なリズムを表現できる子がいました。

 音楽で言えば、曲を聞いただけでオルガンを弾くことができる子がいました。驚嘆でした。記憶力で言えば、何日も前のステージ発表会の時のみんなの立ち位置ばかりかその時のみんなの服装とその色まで正しく描ける子がいました。何年間ものカレンダーを記憶していて曜日を言うことができる子もいました。みんな常人には信じがたい異才の持ち主でした。

 一度カレンダー少年に訊ねてみたことがあります。何年も前の曜日をどうして答えられるかが不思議でならなかったのです。聴き質すと毎年毎月のカレンダーをすべて記憶しているらしいということが分かりました。その根底にはカレンダーに対する異常なほどの愛着があるのでしょうが、その結果が信じられない記憶力につながっていたのだと思います。

 いえまた何でこんな話になったかと申しますのは、それら子どもたちの中には独特の感性を併せ持った子がいて、その感性が特異な能力と合わさってその子にしか描けない独特の絵や造形を生み出せるまでになることがあるからです。人間という存在の不思議さはそこにあるのだと思えてならないのです。

 私が養護学校に勤め始めた頃、クラスにY子さんがいました。Y子さんは自閉症でした。こちらの言うことは分かっているようでしたが自分から話すことは殆どありませんでした。そのY子さんがひたすら取り組んでいたのは絵を描くことでした。Y子さんはいま工房でイラストを描き続けていてその絵は高い評価を得て商品化されているのです。


 そのY子さんのお母さんが先日「淡淡と仕事をしている職人気質のYちゃん」と手紙を下さいました。お母さんのその「職人」という言葉に思わず納得するものがありました。Y子さんはイラストレーターの職人になるために敢えて障害を持つことを選んだに違いありません。これが人間の不思議でありしょう


人は自らの人生を計画して生まれる。

      ルドルフ・シュタイナー


教育の意味 №708

 教育の意味

令和4年12月14日

 先達て小6になる小衲の孫、(はる)くんが家族を前に「これからの自分たちにとって大変なことは地球温暖化だ。戦争なんかやってる場合じゃない」と言ったと申し上げましたところ何人もの方から共感の思いと晴くんへのお褒めの言葉をお寄せ頂きました。恐縮ながらも有難いことで厚く御礼申し上げます。

 そのうちのお一人、横浜のTさんは「晴くんの強い思いにはご住職様の生き方が受け継がれているのでしょう」とお手紙を下さって、これには一層恐縮でしたが、お手紙には「一人の人間の存在は地球の中の点に過ぎませんが、誰かがその人の生き方の影響を受けて次に繋いでいくとすれば点ではなく線になって行くのですね」と書いて下さってありました。

 そしてまた「教育の大事な点は本当の豊かさを探せる人間を育てることだと思います」とありました。考えさせられました。人間は親に育てられますが、子育てと言うのは教育に他なりません。子は親に育てられながら生き方を学んでいくのです。Tさんがおっしゃるように親は本当の豊かさを探せる人間を育てなければならないのです。

 「学ぶ」という言葉は「真似ぶ」だと言います。子どもは親の生き方を真似て自分の生き方を獲得していくのです。とすれば、子どもが本当の豊かさを探せるようになるためにはすまず親自身が本当の豊かさを探す人にならなければなりません。子はその親の生き方と考えを真似て子の人生をつくっていくのです。  

 人が生きるということは教育を受ける(学ぶ)ことであり、同時に教育する(教える)ということです。Tさんが言われるように一人ひとりの存在は点に過ぎませんが人同士の教え合い学び合いは点と点をつなぐ線になります。その線はやがて網目のように広がって共感と連帯につながっていくに違いありません。


 ロシアはいまなおウクライナへの侵攻を止めていません。こうしているうちにも沢山の人たちが命を奪われ、沢山の人たちが飢えと寒さに苦しんでいるのです。私たち一人ひとりは無力な点に過ぎませんが平和を望む一つの点が線になってつながっていけば戦争を止めさせる包囲網になって行くことでありましょう。



「スイミー」に学ぼう!


〃22紅葉幻想 №707

 22紅葉幻想

令和4年12月4日

 紅葉観賞を俗に「紅葉狩り」と言いますね。狩りと言っても紅葉の枝を折り取ることではありませんが、つい先日京都・建仁寺の境内の紅葉の枝を折り取って警察沙汰になった“事件”がありました。近くの有名な日本料理店の従業員が料理の飾りにするためだったようですが何ともはやでした。

続いて余談になってしまいますが、紅葉狩りという言葉は桜狩り(桜を観賞しながらの鷹狩り)に因んで言われるようになったのだそうです。鷹狩りというのは主に冬の行事だったそうですから桜を観ながらの狩りは野遊び、花鳥風月であったのでしょう。

 閑話休題。今年も長門俵山の西念寺さんの紅葉を観ることができました。

屏風絵を広げた如く目の前にひろがる紅葉綾錦なり

     しぐれ降るなかに佇む紅葉には紅あり黄ありまた緑あり

 上り坂の途中から目の高さに見る紅葉はそれこそ一幅の屏風絵ようで美しいとしか言いようがありませんでした。一刻の自然の芸術でありましょう。

     降るしぐれいよよ静かなもみじ谷音なすものは何一つなし

     この谷の静けさ何とたとうべき紅葉ひっそり揺れもせずして

 時雨の中のもみじ谷は静寂そのものでした。動くものも音なすものもない静けさがあたりを覆っていました。と、その時微かな風が紅葉を散らしたのです。

     はらはらと舞い散るもみじに垣間見る異界霊界黄泉路の世界

 私はその時異次元を思いました。紅葉はその散り際に私たちに異次元・異界を見せているのではないでしょうか。この世とあの世は遠く離れているのではなく隣り合わせに、いやむしろこの世とあの世は混在しているのではないでしょうか。

 紅葉に幻想を覚える時、私は決まったように柿本人麻呂が亡くなった妻を求めて山を訪ねた歌を思い出します。いつだったかご紹介したその歌。

     秋山の黄葉をしげみ(まど)ひぬる(いも)を求めむ山道(やまぢ)知らずも

 人麻呂は行く手をさえぎるほどに散りしきる黄葉にこの世ならぬ世界を見たのだろうと思えてなりません。


私と「現在」を共有するのは、

「あの世」(非因果的領域)である。

橋元淳一郎「時間はどこで生まれるのか」