黄葉無常 №564

黄葉無常
令和元年11月17日

 寺のイチョウが今年もきれいに黄葉しました。毎年、このイチョウの黄葉を見る度に自然のマンダラを見る思いがします。イチョウの木丸ごとが四方八方と上下の十方を表わし、黄葉の一枚ずつが私たち人間一人ひとりと思えるのです。何千何万もの葉一枚ずつがそれぞれの場所を持っている立体のマンダラと思えるのです。

 しかし、そのイチョウマンダラも言えば一瞬のことです。それこそマダラ模様に色づき出すと日毎に木全体が黄色になりますが、全体が黄葉すれば後は落葉。この間十日もあるでしょうか。

 青葉の時にその変化は気づきにくいですが黄葉時にはイチョウもほんの短い間に黄葉落葉という日毎の変化をしていることが分かります。

      紅葉黄葉錦秋山     山一面のもみじの錦

      満山徧界堂々閑     語らず示す自然の道理

      春夏秋冬無別事     めぐる一年また同じ

      紅葉黄葉錦秋山     もみじの錦山一面

 あたりの山々も紅く黄色く紅葉しました。上に申し上げましたように寺のイチョウ同様、山の紅葉もまばたく間のこと。冬への備えが紅葉と落葉。冬への備えは春の準備です。春にまた芽を出し花を咲かせるための一過程こそが紅葉であり落葉であるのです。樹々は毎年毎年それを繰り返しています。一瞬一瞬の変化を続けているのです。

 イチョウの黄葉はその変化を身をもって教えてくれます。イチョウに限りません。他の木々に限りません。私たち人間も同じです。すべてのものは毎日毎日年年歳歳一瞬も留まることなく変化し続けているのです。端的に言えば今日の私は昨日の私ではありません。僅かとはいえ体も心も間違いなく一日の変化をしているのです。

 先日のたよりで般若心経に言う色即是空・空即是色の「空」は無常だと申し上げました。結局、般若心経が教えているところも「諸行無常」ということなのです。無常をどう受け取るかは人それぞれでしょうが私は無常は永遠だと思います。無常であるからこそ私たち人間も永遠の存在なのだと思います。
 
 
あき空を はとが とぶ
それで よい それで いいのだ
         
         <八木重吉>
 

 

祭りの晴れ着 №563

祭りの晴れ着
令和元年11月16日

 つい先日のことです。観音寺から車で20分ほどの所にある障害者施設の収穫祭にお邪魔しました。寺にお詣り下さる方のご縁で数年前から収穫祭にお伺いしているのですが、以前養護学校に勤務していた自分にとってはダウン症の方などいわば見慣れた顔の人たちにお会いできて安堵感さえ覚えるのです。

 ところでその日、私は着ていく衣服については何も思わずでした。町に用足しに行く普段の姿で行ったのです。これまでも衣服について考えることはありませんでしたし、お出でになっている方々も特段着飾っている人はありませんでしたから普段着のままで違和感はなかったのです。むしろ気楽な集まりの日という思いであったことを否めません。

 しかしその日、私は改めてその日が収穫祭、文字通り「祭り」の日だということを思ったのです。祭りの日ということは言わば「晴れ」の日。今では意識されることも稀になりましたが、ハレ(非日常)とケ(日常)のハレの日です。その時には晴れ着を装ってこそハレの日になるのではないかという思いが胸をよぎったのです。

 私がそのことを思ったのはもう何十年も前、神秘学の先生に伺った話を思い出したからです。恐らくその先生がドイツにいらしたときのことだと思います。かの国の女性の研究者は普段は汚れた白衣を着ていても論文の発表会には別人と見間違うほどおしゃれな姿で来るというのです。先生はそれが「祝祭」だと言われたのです。

 私はその時、祝祭という意味を初めて教わった気がしました。祝祭というのはそう言うことかと納得する思いでした。祝祭の根底にあるのは祈りでありましょう。普段は汚れた白衣を気にすることもなく研究に没頭していてもその成果を発表する日には見間違うほどおしゃれな姿で臨むというのはその日が祝祭、祈りの日だからに違いありません。

 申し上げましたように祭りというのは非日常です。収穫祭というのは自然の恵みに感謝し、その自然を司っている大いなる存在に祈りを捧げる日なのです。となれば、その祈りの日にはその祈りに相応しい姿をすべきではないでしょうか。私たちはいまハレとケをほとんど意識しなくなりましたが大切なことであると思います。
 
秋祭り 喧噪もまた 祈りかな

 
 

徴用工問題を考える №562

徴用工問題を考える 
令和元年11月12日

 元徴用工訴訟で韓国の最高裁にあたる大法院が日本企業に賠償を命じる判決を出して一年、日韓関係はかつてないほど冷え切った状態が続いています。この状態が続けば差し押さえられた日本企業の資産売却とか日韓の軍事情報包括保護協定(GSOMIA)の失効という一層の悪化になりかねません。

 日本政府はこの問題に対して「完全かつ最終的に解決済み」と言い続けています。その根拠にしているのは1965年の「日韓請求権協定」です。しかし、この協定で消滅したのは外交保護権であって個人請求権は消滅していないということは日本政府自身が言っていることですから解決済みということに矛盾は否めません。

 日本政府が「個人請求権は消滅していないが裁判によって請求できなくなった」としているのは裁判を受ける権利を保障する世界人権宣言や国際人権規約など国際法の義務に違反すると言われているのですからこの日本の主張を韓国の人たちが納得することはないでありましょう。個人請求権を認めながら裁判に訴えることはできないというのはヘンとしか言えません。

 徴用工問題は日本の負の歴史です。戦時中、労働力不足に陥った我が国は植民地化していた朝鮮に労働力を求め、男性の場合は募集、官斡旋、徴用の名目で、女性の場合は女子勤労挺身隊という名目で人を集めました。しかし、その実態は募集など名ばかりの強制動員であったと言います。そしてその人たちが炭鉱や土木現場等で危険な重労働に従事させられたのです。

 女子勤労挺身隊で徴用された少女たちは「女学校に行ける」という約束も守られず給料もまともに支給されないまま親と引き離されて軍隊式の共同生活を強いられ、貧しい食事で危険な重労働をさせられたと言います。同年代の日本の子どもたちは空襲を避けて疎開しているのに勤労挺身隊の少女たちは軍需工場で空襲の恐怖に怯えながら働かされたというのです。

 二度と繰り返してはならない非人間的な行為。この失敗を繰り返さないために西ドイツ大統領であったワイツゼッカーさんの言葉を改めて胸にしたいと思います。ワイツゼッカーさんはこう言っています。「過去に目を閉ざす者は現在に対しても盲目になる。非人間的行為を心に刻もうとしない者はまた同じ危険に陥る」と。
 
歴史を変えたり無かったりにすることはできません。
 
           <ワイツゼッカー>

金澤翔子展を観る №561

金澤翔子展を観る
令和元年11月10日

 先日、と言っても10月のことですが、下関市立美術館で開かれた金澤翔子展を観に行きました。金澤さんが揮ごうしているのをテレビで見たことがありましたが、実際に書を見るのは初めてです。正直その書には人を圧倒する力を感じました。それだけでなく、やっぱり書家と思わせられたのはさすがでした。

 今回の作品のうち私が特に感銘を受けたのは「般若心経」です。「般若心経」は掛け軸四枚のものと六枚のものが並べてありました。四枚のものは翔子さん十歳の時のもの、六枚のものは三十歳の折のものです。双方は見た目が全く違います。十歳の時のものはゴツゴツした感じですが、三十歳のものは書家の書なのです。

 十歳と三十歳では二十年の差があるのですから違いがあって当然ですが私は十歳の時の方に魅かれるものを感じました。その書は必死の思いそのものなのです。私は分かりませんでしたが書にはこぼれた涙の跡があると言います。毎日毎日、翔子さんはお母さんに叱られ泣きながら272文字の般若心経を書き続けたと言うのです。

 その十歳の時の般若心経には背景がありました。その年、翔子さんは普通学級から身障者学級に変えられたのだそうです。悲しみのあまり学校にも行けず、親子して途方に暮れていた時、お母さん、泰子さんは翔子さんに般若心経を書かせようと思い立ったというのです。翔子さんには難しすぎる挑戦でした。しかし、翔子さんは泣きながら書き続けたと言います。

 来る日も来る日もお母さんが罫線を引き翔子さんが書くという日々。泰子さんはその時を振り返って「翔子には厳しい鍛錬の刻であった。思えば翔子が書の道で生きる兆しはこの般若心経に在った。何処へとも行方の知れない辛い不安な凍土があったからあの凄い心経が芽吹いたのでしょう」と言われます。


 書家・金澤翔子の原点が十歳の時の般若心経にあったこと。そしてその背景には親子して孤立し悲しみに打ちひしがれる日々があったことに私は粛然たる思いを禁じ得ません。しかし、その絶望の中での努力があったからこそ書家金澤翔子が生まれたのでありましょう。今ではこの作品が一番人気があるそうです。

 
(書家翔子の誕生は)祖父、父、私、書によって貫かれた
(三代の)血、祈りにも似た願いなのでしょう。 
                   <金澤泰子>