また「新型出生前診断」 №628

 また「新型出生前診断」

 令和3年4月18日

 このたよりでは過去何回か上記「新型出生前診断」(NIPT)について意見を述べてきましたが、伝えられるところによれば、この診断の実施施設の審査や認証に国が加わる運営委員会がこの夏にも発足することになったと言います。遅きに失したとは言えようやくこの診断のあり方について国が加わることに期待して止みません。

 毎回申し上げていることですが、この新型出生前診断の一番の問題点はこの診断が命の選別にしかなっていないということです。この診断を受けて陽性となった方の9割が中絶を選んでいるという実態がそれを示しています。その事実はこの診断が、ダウン症=障害者→中絶、という命の選別に直結していることを示していると言えましょう。

 わが国でこの診断が始まったのは2013年ですからもう8年も前になりますが、国は診断が命の選別になっていることに何の手立ても取ってきませんでした。野放し同然だったと言えましょう。ために検査料目当ての実施施設が急増して命の選別が現状化することになりました。誠に憂慮すべきことと言わざるを得ません。

 この件に関しては時折下関市の担当課に伺っておりますが、その都度国や県から通達や指示はなく実施施設の把握もしていないということでした。私はこの診断は陽性と判断された人への十分な情報提供とサポートがないままにしてはいけないのだと思います。中絶を選んだ陽性者の方々はどれほどの情報とサポートを受けたのでしょうか。

 出生前診断は現在ダウン症など3疾患に限定されていますが、いずれ数多くの疾患が診断可能となった時は優生思想むき出しの命の選別が常態化してしまうのではないかと危惧されてなりません。それが医学医療の進歩と言えるでしょうか。国が関与する委員会に私が検討を望んで止まないのは出生前診断の是非です。

 私はいまダウン症の人は障害者なのかと思っています。支援を必要とする部分はあってもそれは支援を必要とする他の人々と同じならば敢えてダウン症を障害者とする必要はないのではないかと思うのです。人間はみんな何らかの支援を必要とする存在です。そのみんなが共助共存するのが人間社会ではないでしょうか。

 

   人間はみな障害者である

           ルドルフ・シュタイナー

「塔婆供養」考 №627

 「塔婆供養」考

令和3年4月17日

 この観音寺では年4回の法要の折に塔婆供養をしていることは皆さまご存知と思います。この塔婆供養はご依頼を受けて先祖代々精霊や故人各霊の供養をするものですが、先日Sさんにこの塔婆供養の意味は何ですかと訊ねられました。確かに供養になぜ塔婆なのかと疑問をお持ちの方もお出でと思います。

 塔婆は梵語のストゥーパが原語です。このストゥーパを音写したのが卒塔婆。略して塔婆あるいは搭と言っています。ストゥーパは本来、塚(墓)を意味していましたが、時代の流れとともに木製あるいは石製の搭を言うようになり、我が国では命日などに墓の後ろに立てる五輪塔を模した細長い板を言うようになりました。

 観音寺が使う経木塔婆が上部に地水火風空の切り込みを入れた五輪搭形式になっているのはストゥーパが搭であったことを表わしているのです。寺ではその塔婆の最上部にまず「為」と記し、続いて供養名、その後に「施主○○」と書きますが、これは施主○○が故人○○の供養の為にこの塔婆を造りましたという意味です。

 このように塔婆供養は略儀ながらも「搭を造って供養し冥福を祈ります」ということですから大変尊く有難いことでありましょう。そもそも供養の原義は養(美味しいもの)を供(お供え)するということであり、供養膳がそれに当りますが、そのお膳を供えて追善供養することは故人にとって嬉しいことに違いありません。

 しかし、供養というのは故人に限ったことではありません。今では亡くなった人にするのが供養のように思われていますが本来は生きている人、親とか友人知人に対しても言えることです。親孝行はその典型でありましょう。親に美味しいものを差し上げること、楽しい時を指し上げること、これは供養そのものです。

 私は供養というのは生者にしても死者にしても「力を送る」ということだと思います。美味しいものはエネルギーになります。供養の祈りもエネルギーです。その人を思ってその人にエネルギーを送る行為、それがそのまま供養だと思います。祈りは力。その力を送るのが供養。皆さん、どうぞ供養をして下さい。

 

 いつしかは私も先祖の仲間入り

  供養でつなぐ命の絆

お釈迦さまの教え №626

 お釈迦さまの教え

令和3年4月8日

 今日は三仏忌の一つ、花祭り(降誕会)です。とはいえお釈迦さまの生没年は正確には分かってはいません。お亡くりになった歳が80歳であったということから生没年が推測されていますが確定したものはありません。しかし、いずれにしても2500年、そのお釈迦さまの教えがいまに続いていることには“すごい”の一言でありましょう。

 連綿として続いているお釈迦さまの教え。それは何ゆえか。私はその理由は「真理」だと思います。お釈迦さまが私たちに教えて下さったことは真理、宇宙の真理だと思います。銀河系宇宙の中の地球に一生物として存在する人間が悟るべき宇宙の真理、自然の摂理を教えとして示して下さったのがお釈迦さまだと思います。

      節気清明生命新    天地はつらつ命新たに

      花開草萌躍動辰    花咲き草は萌えいずる

      今日釈迦降誕会    今年も来たね花祭り

      信士信女邁進春    教え守ってまた一年

 お釈迦さまの教えに「諸行無常」がありますが、私はここ数年この教えこそ真理そのものという思いを強くしています。諸行無常とはその言葉通り、一切のものは変化して止まないということです。涅槃経の中では「世は皆無常なり」と記されていますが、すべてのもの私たち人間もまた無常の存在であるというのは真理そのものだと思います。

 ではその無常の存在である私たちは現実にはどう生きたらよいでしょうか。私はその生き方を教えているのが「七仏通戒偈」だと思います。「諸悪莫作・衆善奉行・自浄其意・是諸仏教」。これに尽きると思います。悪いことはしない、よいことをする、心を清くする。私たちが日頃意識して務めることはこの三つに尽きると思います。

 このうち、心を清らかにすることには一つ方法があります。それは自分に対してでも他人に対してでもよくない心が生じたらそれを振り切ることです。「なむしゃかむにぶつ」でも「なむかんぜおんぼさつ」でも結構です。それを唱えてよくない心を断捨離すること。悪心の断捨離こそ清い心への第一歩と言えるでありましょう。

    

   身を節し時に食して清浄に自活せよ

               <涅槃経>