この一年 №518

この一年
平成30年12月17日

今年も残り二週間になりました。皆さまにとって今年はどんな一年だったでしょうか。お詣りの方に伺いましたら多くの方が「健康に過ごせてまあまあだった」とのことでした。健康第一と思えばまあまあも目出度しということですね。無事当然というより無事過ごせることがむしろ奇跡。有難いことだと思います。

 しかし、国内的にはどんな一年だったでしょうか。政治は沖縄の普天間基地の辺野古移設に象徴される民意無視の暴挙や数を力の強行採決が続きました。日大アメフト部のパワハラ事件がありました。両親から虐待され食事も与えられずに亡くなった船戸結愛ちゃんのことがありました。思うほど悔しさ怒り、情けなさ悲しさばかりだったように思います。

 そんな中で唯一溜飲が下がる思いがしたのはNHKテレビ「チコちゃんに叱られる」の「ボーっと生きてんじゃねーよ」でした。しかしこの言葉、私たち全員に向かって言われているように思えてなりません。私たちはもっと注意深く意識的に生きなければいけないのに曖昧かつ散漫に過ごしていることを指摘されているように思えるのです。

 思えば私たちは日常を正しく認識しているでしょうか。政治のウソ偽りに怒りや悔しさを感じているでしょうか。潔く生きることを求めているでしょうか。悲しみを悲しみとしているでしょうか。そう思うと私は忸怩たる思いを禁じ得ません。曖昧に妥協するな!問題意識を持て!散漫に生きるな!チコちゃんにそう言われているように思うのです。

  先達て畏友S師の寺の掲示板に「日常の生活に於ける認知の(ゆが)みを修正する」という言葉が貼られているのを見ました。ここで言う「認知の歪み」とはものごとを正しく理解していない、判断出来ていないということだと思いますが、S師の言われるこの認知の歪みの修正こそ私たちがいま最も必要なことではないでしょうか。

 私たちはとかく我見に陥りがちです。碌な知識も経験もないまま管見に固執して我見を改めることが出来ません。お釈迦さまが最初に説かれた八つの実践徳目、八正道の一番目「正見」は正しい見解、二番目の「正思」は正しい思惟です。私たちは時に振り返ってこの正見正思に努めなければならないと思います。
 
 
 喜怒哀楽に素直に生きよう。
怒りを怒りとし悲しみを悲しみとしよう。
 

 
 
 

18”紅葉幻想 №517

18”紅葉幻想
平成30年12月8日

      午後の陽を浴びてひそかな紅葉谷夢のようなる静けさの時

      冷ややかな風吹き渡る紅葉谷ひとり静かに歩みを進む

      一面に紅葉敷き散る細き道木漏れ日差してつくる我が影

      見上げれば明るく青き秋の空紅き紅葉をいよよ紅くし

 先月23日、今年も大寧寺様法要の帰り道、俵山の西念寺さんの紅葉を見に行きました。今年も見頃は過ぎていましたが谷から見上げる紅葉の幾本かは午後の陽を浴びて鮮やかに見えました。その景色にいつも思うのは静けさです。秋の午後の静けさには独特の雰囲気がありますね。木漏れ日の道にしみじみとする思いがありました。

 その思いの時、いつもその静けさの中に異界が潜んでいるのではないかという思いがしてなりません。もちろんこの世ではなくあの世でもない世界。それを異界と言うならばその異界が紅葉の散る静けさの中に潜んでいるように思うのです。

      はらはらと音しのばせて降りしきるいてふしぐれは夢かうつつか

 上はまさにその思いの一首です。一陣の風に誘われるように降りしきるイチョウを見ると一瞬自分が夢の世界にいるような錯覚を覚えます。それは明らかに現実世界ではありません。現実世界に潜む異界としか言えません。私たちは日常の現実世界しか見ていません。しかし、この現実世界の裏には私たちが日常感知しない異界があるのではないでしょうか。


 いつでしたか、私たちが花火やホタルに魅せられるのは花火やホタルが霊界での記憶を思い起こさせるからではないかと申し上げました。それと同じように、はらはらと雨のように降り散る紅葉は私たちに異界の存在を暗示するのではないでしょうか。思わず声を上げそうになるほどに降りしきる紅葉に不思議を覚えざるを得ません。

 私たちは霊界を感知することが出来ません。それは霊界を感知する能力を持っていないからです。テレビやラジオが映像や音声をつくることが出来るのは電波をキャッチして映像や音声に変換出来るからですが、私たちは霊界の受信装置を持っていないのです。しかし時に自然が不思議の世界を暗示してくれるような気がします。
 
 
大いなるいてふ黄葉を前にして
   我もの言へずものを思はず

神さまのお迎え №516

神さまのお迎え
平成30年12月1日

 お迎え現象に関連して前々号で神奈川のKさんのご感想をご紹介しましたが、その後、横浜のTさんが驚くようなお迎えの話を下さいました。Tさんはその体験から「生き方は死に方だと聞いたことがありますが本当にそうだと思いました」と言われます。私も全くその通りと思いました。伺った話をご紹介致します。

 Tさんが体験されたのはご主人の叔母に当る方、髙谷朝子さんとおっしゃいます。この方昭和18年、19歳の時から57年間、内掌(ないしょう)(てん)という宮中の祭祀を内から支える仕事をされてこられたと言います。Tさんがお手紙に添えて下さった髙谷朝子様のご著書「皇室の祭祀と生きて」(河出文庫)で私は初めて内掌典という仕事を知りました。

 髙谷様は先達てお亡くなりになったそうですが、その亡くなる日、「私は今日でおしまい。明日はありません」とはっきり言い、その後一人で静かに旅立ったと言います。Tさんはその時、部屋の空気が変わって何かとてつもなく大きなものを感じ、髙谷朝子様をお迎えに来たのは神様だったのではないかと言われるのです。

 私はそのことを伺ってそれは間違いなく神さまがお迎えに行かれたのだと思いました。それは頂いた本を読んで分かりました。髙谷様は本の中で「常に身を清めて素直な気持ちを保ちいつも神さまがお側にお出であそばします気持ちでお仕え申し上げますように上のお方様から教えられてございました」と言われています。これは修行に他なりません。

 内掌典として神さまに仕えることを御用と言うそうですが、髙谷様は「不調法のないようにと思うだけで精一杯。五十年が過ぎまして辞めさせて頂きます前ごろになって私自身も御用を体得させて頂きました。まさに一生の修練でした」と言われていますが、まさに神さまに仕えるという祈りの修行を一生続けられたのです。

 Tさんからのお手紙そして髙谷朝子様のご著書を読んで私は類まれな修行の人生を送られた方を知ることが出来ました。私も常々「人は一生修行」と申し上げていますが、髙谷様は素直な気持ちで神さまにお仕えするという修行の一生を過ごして神さまのお迎えを頂いたのです。まさに生き方は死に方。敬服珍重です。
 
  教えて頂く時は
  「必ず畏れ入りますと申し上げて
   素直な気持ちで自分を顧みます」
            ~髙谷朝子~
 

 
 
 
 

象徴天皇陛下 №515

象徴天皇陛下
平成30年11月26日

 先達てのたより「陛下のご信念」(№510)で天皇皇后両陛下が平成の30年間、平和日本の象徴として世界平和のために尽力して来られたことを申し上げましたが、その後、毎日新聞の広岩近広(客員編集委員)さんが1026日同紙で「象徴天皇の原点」と題して象徴天皇の源泉を考究されているのを読みました。

 広岩さんはまずこう言われます。「平成の30年は天皇陛下が象徴としての務めに精励された歳月だった。陛下はこの30年間で、平和日本の象徴天皇像を確立した。平和の祈りを込めた慰霊の旅を続ける陛下の姿は誠心誠意、全身全霊の形容がふさわしい」と。そして「この源泉はどこにあるのだろうか」と言われます。

 広岩さんはその原点は昭和28年、皇太子であった陛下が昭和天皇の名代として英女王エリザベス2世の戴冠式に参列するためにお出でになった初外遊にあると言われます。敗戦から8年、日本が主権を回復したサンフランシスコ条約から2年というこの時、19歳であった皇太子殿下が平和日本をアピールする使命を担ったと言われるのです。

 そしてその通り、陛下は皇太子として「欧米の訪問先で軍国日本の影を取り除く役目を果たされた」と言います。チャーチル首相主催の午餐会では陛下への理解が深まりすべての出席者が武装を解いたのだそうです。広岩さんが陛下が“平和日本であってこその象徴”との思いを強く刻んだに相違ないと言われるのも頷けます。

 繰り返して申し上げますが、陛下はこの平成の30年間、世界平和を祈って慰霊の旅を続けてこられました。平和日本の象徴として全身全霊を傾けてこられました。そして来年五月、次の天皇になられる皇太子さまが陛下と同じように平和日本の象徴としてあり続けて下さることを強く望んでおられるに違いありません。

 いま政権与党の自民党はしきりに改憲を目論んでいますが、その改憲案には象徴としての天皇ではなく「元首」を復活させています。それは旧憲法の軍国主義そのもの、先の戦争に何も学んでいない恥ずかしい発想によるのでありましょう。繰り返して申し上げます。私たちは陛下の心を心として平和を守らなければなりません。
 
 「平和日本の象徴天皇像を
  陛下が確立されたことはまぎれもない」
            ~広岩近広~
 

 
 
 
 
 

続「お迎えを受けるには…」 №514

続「お迎えを受けるには…」
平成30年11月25日

 先日のこのたより「お迎えを受けるには…」(№508)で「お迎え現象」を体験した人が例外なく穏やかな最期を迎えるということを申し上げましたが、これをお読み下さった神奈川県のKさんがご自分の体験感想をお寄せ下さいました。そのご指摘になるほど最もと共感を覚えましたのでご紹介させて頂きます。

 Kさんはこう言われるのです。「今の時代の葬儀は多くが自宅ではなくセレモニーホールで通夜、告別式が極めてシステマティックに執行され、遺族側も弔問客も会話をすることはなく一定時間で坦々と経過していますが、これは双方にとって一種“気楽”な展開です」と。“気楽”な展開という指摘、言われてなるほど、と思いますね。

 Kさんは続けてこう言われます。「以前なれば恐らく遺体を前に(多分)ダラダラとお悔やみのほか故人の話などを続けたのでありましょう。この“ダラダラ”は実はお互いにとり非常に大切な時間だったのではないでしょうか。寝ている遺体にとっても。こういう一見、無駄なやり方が捨象されている葬儀は多忙な現代社会の一種の知恵なのでしょうが…」と。

 Kさんは上のことを最近伺った隣人の葬儀の折に感じたと言います。先日のたよりにも書きましたが、いま亡くなる人の8割が病院という現実があります。その現実がもたらしたものは死を忌まわしいものと忌避し、死を儀式化商業化することでした。以前は身近であった死が他所事化した結果がKさんの上の指摘だろうと思います。

 申し上げていることですが、死は次の生の始まりです。肉体の死が人間の死ではありません。命あるものは死ぬ、というのは生物としての身体です。しかし、霊的存在としての人間は永遠の魂を持っており、肉体に宿った魂が生まれ変わり死に変わりを続けていくのです。それを輪廻転生と言うのです。

 死をもう一度身近に取り戻すこと。それがお迎えを頂くために最も必要なことではないでしょうか。誰一人避けることが出来ない死を以前のように身近なものにし子が親を孫が子を順に送ること。単なる儀礼ではなく淋しさ悲しさを露わにする別れこそお迎え現象の基本ではないでしょうか。
 
 
人の世は 命の順に お送りし
    私もいつか お迎え頂く
 
 

回光返照 №513

回光返照
平成30年11月23日


      振り返ることはないんだ自分の死    熊本・坂の上の風
 
 先達て、といってももう先月末のことになりますが、上の句が毎日新聞の中畑流万能川柳に載っていました。作者はむろん選者にとってもこの川柳はそうだという共感があったに違いありません。私自身その共感に共感する思いがあることを否めませんでした。

 人間死んだらどうなる。これは誰しも思うことですね。この時、唯物的に考えるなら物質から独立した霊魂とか精神とかはありませんから肉体の消滅によってすべて無に帰することになります。上の川柳は恐らくその立場からの句でありましょう。意識が高度に組織された物質(脳髄)の所産と考えるならば肉体の死の以後の自分はありません。

 しかし、輪廻転生の立場から考えるとどうでしょう。仏教では解脱しない限り生あるものは迷いの世界である三界六道を輪廻しなければならないと考えられています。ということは、私たちは解脱しない限り意識的な個として生死を繰り返さなければならないということになります。私はこの立場です。人生一回で終わりとは思っておりません。

 人生ただ一回ならば道徳も倫理も無視できませんか。いや一回だからこそ道徳を全うしたいという殊勝なお方もいるに違いありませんが、多くの人は好き放題やり放題でいいと思うのではないでしょうか。私たち人間の人生がただ一回なのか、意識的な個としての人生が続くのかという違いが人生を考える分かれ道になるように思います。

 表題の「回光(えこう)返照(へんしょう)」という言葉は道元禅師が書かれた「普勧坐禅儀」にあります。「須らく回光返照の退歩を学すべし」という文言ですが、この「回光返照」というのは我が身を振り返るということです。進歩でなくて退歩。よくよく自らを振り返って自分が何者であるかを見極めなさいというのがこの「回光返照」なのです。

 神秘学では人間は死後、自分の一生をパノラマのように見た後、過ごしてきた人生が自分にとってまた周囲の人にとってどんな意味を持っていたのかと反省する時を過ごすと言います。私はそれが真実だと思います。私たちは永遠の修行者として常に自己を振り返り、反省の後に新たな生を頂くのだと思います。珍重。

 

 あるものは()()に生まれ 
 悪しきをなせるものは悪処(あしき)にゆき
 行いよきものは福処(よき)にゆき
 諸漏(まよい)のつきたるものは涅槃(さとり)に入るなり