人体コンポスト №546

人体コンポスト
令和元年7月17日

人体コンポスト、という表題に「ん?」とお思いの方もお出ででしょうが、人体コンポストとは文字通り人間の身体をコンポスト(堆肥)にするということです。先達て(5/25日)の毎日新聞に「人体をコンポストに」というコラムがありました。米ワシントン州が全米で初めて遺体をコンポストにすることを合法化し知事が法律に署名したというのです。

 この方法の提唱者である女性は「火葬は二酸化炭素の増加につながるし本来土に返るはずの有機物も失われる。ならば自然のプロセスを利用して土に返した方がよいと思った」というのです。実現性を確認するための試験では、遺体をコンテナに入れてわらや木材チップなどで覆うと4週間ほどで堆肥となり土になったと言います。

 この人体堆肥がアメリカで定着していくのか、さらにそれが我が国にも導入されるのかは分かりませんが、この背景にはいま日本で問題になっている墓のことがあるように思います。いま日本では墓じまいをはじめ、合葬墓、無縁墓、散骨など墓に関連することが悩みと関心事になっていることは皆さまもご存知でありましょう。

 この背景には葬儀やお墓に関する費用の問題、宗教観の変化、檀家離れ等々、現代日本が抱える問題があることは言うまでもありません。端的に言えば時代および家族の変化の中で多くの方が墓じまいに直面しているという現実、葬儀の意味を問う声、葬儀にかかる費用の妥当性などがあからさまになっていると言ってよいでありましょう。

 先達ての研修会で葬儀や墓のこれからの十年を聴く機会がありました。上に述べたような時代的社会的変化にあって今後の葬儀は小規模化・脱宗教化、葬儀の時だけの導師、お布施の金額明示などが進み、お墓については低価格化、多様化などと同時に継承者のいらないお墓が求められ、それは都市部から地方へ確実に波及していくというのです。

 その流れの中で今後、おひとり様の「弔い委任」にも寺が関わることになるだろうという話もありました。一連の葬儀に関する手続きや実際を分担するかどうかは別にして「委任」という形で依頼者の葬儀をすることが稀ではなくなるということでありましょう。これ皆さまにも他人ごとではないに違いありません。
 
 
 葬式仏教が悪いのではありません。
 葬式仏教が制度疲労を起こしているんです。
     ~寺院デザイン代表/薄井秀夫~ 
 
 

道徳以前 №545

道徳以前
令和元年5月16日

 先日、スーパーに行った時のことです。お母さんと一緒にきた2歳ぐらいの女の子がいました。嬉しそうにお母さんの手を握っている笑顔はお母さんへの信頼そのものでした。お母さんを信頼して疑うことを知らない無邪気そのものでした。その無邪気な笑顔に私も思わず笑みをこぼさずにはいられませんでした。

 人間は未熟状態で生まれてくると言われます。他の動物のように生まれてすぐに立ち上がって動くことが出来ません。3歳くらいまでは親の保護が必要です。子どもに対する母親の絶対の保護と母親への子どもの絶対の信頼が子どもを無事に成長させるのです。人類は誕生以来そうして子どもを育ててきたのでありましょう。

 しかし近年、別けて最近、親の虐待によって子どもが死ぬという事件が後を絶たない異常な事態になっています。つい先日も母親に放置された2歳の女の子が飢えと低体温症で亡くなるという痛ましい事件がありました。亡くなった子の胃は空っぽ。衣服もつけていなかったと言います。ひとり死んでいった子を思うとその不憫さにため息しかありません。

 いまこの日本はどうなってしまったのでしょうか。親の子どもへの虐待やネグレクトが特異な事件ではなくなっていることを考えると日本という国が異常化してしまったとしか思えません。今回の事件では子どもが泣き叫ぶ声を聞いていた人もいたのです。それでも助けられなかったことに異常化の一端を見る思いがしてなりません。

 これを正すにはどうしたらよいのでしょうか。私はまず第一に教育ではないかと思います。親の子どもへの虐待やネグレクトは道徳以前の問題でありましょう。地域共同体がなくなり家庭の多くが核家族という状況にあって地域の力も家庭の力も弱くなる一方のいま、この道徳以前の問題に関われるのは学校しかなくなりました。

人が社会生活を営む上でしなければいけないこと、してはいけないことを小学生のうちから繰り返して教えていくしかないと思うのです。社会生活最低限のルールを教えることによっていじめや虐待をしてはいけないことを学んでくれるのではないでしょうか。我が国はいまそれほど危機的状況にあるのだと思われてなりません。
 
人は一人では人になれない。
教えられ学んで人となるのだ。
 

 

重い選択2 №544

重い選択2
令和元年7月9日

 先達てのたより、重い選択(№527)で昨年8月、東京の公立福生病院で人工透析を中止した44歳の女性が一週間後に亡くなったという新聞報道を取り上げました。女性は医師から提示された選択肢、透析中止を選んだということでしたが、たよりを書きながら私が疑問に思い続けたのはなぜ医師は透析中止という選択肢を提示したのかということでした。

 女性の透析に関わっていた二人の医師の思いは「透析をやらない権利を患者に認めるべきだ」ということでしたが、その選択と決断は本来、患者自身がするものであって提示されるものではないように思うのです。案の定、選択肢を提示した医師に対して日本透析医学会など医療関係者から「医師の身勝手な考えの押し付けで医療ではない」との批判がありました。

 ところがです。その日本透析医学会が6月末に開いた学術集会・総会で終末期に限って認めている現行指針を改めることにしたというのです。その背景には現行指針が「非現実的であり現在の医療状況にそぐわない」ということがあるようです。そのことは現行指針に従わない透析施設が多く存在するということでしょうが、ではそれは指針を改定すれば済むことでしょうか。


 この問題、私には医療費が関係していると思われてなりません。いま我が国の透析者は334500人、一人当たりの医療費は月額40万円といいます。新聞によれば厚労省は17年に4万人の新規患者を28年までに年35000人以下に抑えることを目標にしていると言います。日本透析医学会の指針改定にはこの医療費への忖度がないでしょうか。

 私に友人に透析をしながら人並み以上に元気に活動されているHさんがお出でですが、そのHさんが、透析のことをよく知らない人が、公立福生病院の事例から「透析=終末期医療」という印象を持ってもらいたくないと、ジャーナリスト斎藤貴男さんの「いのちに優劣はあるか」(全国障害者問題研究会誌・みんなのねがい)という寄稿文を送ってくれました。

 斎藤さんの文章には医療費についての言及はありませんが、公立福生病院の医師二人は医療費に関して暴言を繰り返している麻生財務相の発言に背中を押されたのではないかという指摘がありました。氏はこの底にあるのは優生思想だと言うのです。斎藤さん言われる通りいま日本には想像以上に優生思想が蔓延しているのではないでしょうか。

優生思想が攻撃し排除する対象は極めて広い。
想像を遥かに超えるレベルで社会を覆っているのではないか。
                   (斎藤貴男)



また「新型出生前診断」 №543

また「新型出生前診断」
令和元年7月8日

 このたよりでも何回か取り上げた「新型出生前診断」(NIPT)について再度です。先月22日の毎日新聞によれば、厚生労働省がこの新型出生前診断のあり方を議論する初めての検討会をこの夏にも設置する方針を固めたということです。国はこの診断検査にこれまで何の対策も取ってきませんでした。遅きに失したと言えるのではないでしょうか。

 この新型出生前診断は2013年に臨床研究として始まり、昨年9月までの5年半で65000件を超える検査が実施されたと言います。しかし、この検査の問題は検査結果が陽性となった人のうち9割の人が中絶を選んでいるという事実です。結果としてそれは「命の選別」にほかなりません。この検査の罪深さはそこにあると思います。

 毎回申し上げていることですが中絶を選んだ人が責められるべきではありません。恐らくは皆さん苦渋の選択であっただろうと思います。しかし一方、そのことによってダウン症児として生まれるはずだった命が断たれたことを思わずにはいられません。それは障害者排除の考えにつながっていくのではないでしょうか。

 この検査がさらに浸透し誰でもが自由に受けられるようになったら陽性即中絶ということが当然になりはしないでしょうか。これから先あまたの障害や疾病が出生前診断で分かるようになった時、命の選別ということさえ思わなくなるのではないでしょうか。それは障害者のみならず高齢者など弱者の排除につながっていくのではないでしょうか。

 振り返ってこの新型出生前診断について言うならば、第一の問題は陽性者に対する援助体制が十分でないことでしょう。陽性であっても安心して出産し育児ができる援助制度があれば中絶をしない人も出てくるに違いありません。ドイツにはこれらの問題をクリアするための「妊婦葛藤法」があることを以前紹介しましたがわが国にはまだそれがないのです。

 科学、医学の進歩は日に日に留まるところを知りません。この新型出生前診断のように以前は知ることも出来なかったことが益々分かるようになるでありましょう。それが結果として神の領域を冒すことになるかも知れません。しかし、それは私たち人間にとって幸せなことになるのでしょうか。
 人間の不安は科学の発展からくる。
 止まることを知らない科学は
 我々に止まることを許してくれたことがない
            (夏目漱石)