予 祝 №346

 予 祝
平成27年10月29日 
 先日、Oさんのご依頼で新車の交通安全祈願をいたしました。車の交通安全祈願は久しぶりでしたが、この観音寺の安全祈願は初めに願主さんにして頂くことがあります。それは車に乗ってちょっとの間エンジンをかけ、またエンジンを切って下りてきて頂くという仕草です。この仕草を必ずして頂いているのです。

 これは車に乗って安全に目的地に行き、また安全に家に帰って来たという模倣行為をして頂いているのです。皆さまもご経験がおありでしょうか。私が子ども時分、お正月に新しい下駄を貰うと、必ずその新しい下駄をはいて一度玄関を出てまた玄関に入り直すということをさせられたのですが、車の仕草はまさにそれなのです。

 農耕社会であった日本には往時、正月に田畑の作業をモデル的に行う農耕行事がありました。むろん今でもその行事を続けているところは多いと思います。(くわ)()れ、(くわ)(はじ)め、サツキ(祝い)、田打ち、等と呼ばれるもので、正月のほぼ決まった日にそれを行うのです。この農耕儀礼を予祝(よしゅく)と言います。

 予祝とは文字通り「(あらかじ)め祝う」ということですが、祝の「いわう」には、一般的な「目出度いことを喜ぶ」という意味と同時に「将来の幸いを祈る」という意味があります。つまり、正月の農耕儀礼は、その年の作物穀物の豊作を祈る儀式なのです。この源は照葉樹林帯に成立した焼畑農耕文化に求められるほど古いものらしいのです。

 私はそこに古代の人々の自然に対する素朴で真摯な祈りを思わずにはいられません。農耕社会は自然の恵みがすべてでした。豊作になるか凶作になるか、それは自然によるしかありませんでした。そこに人間の力が及ばぬことを知った時、人々は自然に、そして同時に人智を超えた大いなる存在に祈るしかなかったのです。

 私はこれは21世紀になったいまも基本的には変わらないと思います。農業はやはり自然に左右されています。作物の出来不出来はお天気次第です。そして、私たち人間も同じように自然の中に生かされているのです。生かされている命を生きるということは、祈りに生きるということだと思います。


 
     ひかりがこぼれてくる 
     秋のひかりは地におちてひろがる 
     このひかりのなかで遊ぼう 
             ~八木重吉「秋のひかり」~