「沖縄慰霊の日」に №437

「沖縄慰霊の日」に
平成29年6月23日

 623日は「沖縄慰霊の日」です。今年もこの日、糸満市摩文仁の平和祈念公園で沖縄全戦没者追悼式が行われます。悲惨な敗北に終わった沖縄戦から今年72年目。沖縄戦では3カ月に及ぶ地上戦で20万もの人が戦死しましたが、このうちの約半数94千人が一般県民と子どもたちであったと言います。無念が尽きることはありません。

 沖縄にはさらにこの72年間ずっと続いている問題があります。申し上げるまでもなく米軍基地です。日本国土の僅か0.6%の沖縄に在日米軍施設の73.8%が集中しているのです。このために沖縄は沖縄の主権と人権を侵害され苦しみ続けてきました。そして、それはいまなお続行しているのです。

 沖縄が日本復帰したのは今から45年前、昭和47年です。当時沖縄の人が復帰を願ったのは平和憲法の日本に復帰すれば人権を守って貰えるという切ない願いがあったからだと言います。沖縄の人権問題はそれほどであったのです。しかし、昨年も元海兵隊員による女性レイプ殺人事件がありました。人権問題は一向に良くなってはいないのです。

さらに、いま最大の問題は米軍普天間飛行場の辺野古移設です。沖縄はこれを辺野古新基地建設として反対していますが、政府は「辺野古が唯一の選択肢」として沖縄の民意に耳傾けることもなく護岸工事に使う砕石の搬入を続けています。翁長知事は7月にも埋め立て工事の差し止め訴訟を起こす予定ですがどうなることでしょうか。

前号(部落差別を憎む)で差別は自分自身の問題と申し上げました。翁長知事は昨年のレイプ・殺人事件の折にも「尊厳を守って下さい、日米地位協定も抜本的に変えて下さい、それができなければ日本は独立国ではありません」と言っています。沖縄の問題も私たち一人ひとりの問題に他ならないのです。

 参議院議員・沖縄社会大衆党の糸数慶子さんがある雑誌の落合恵子さんとの対談で「翁長知事を追い込んでいるのは安倍首相はじめ閣僚、日本政府、そしてあえて申し上げますと日本の国民です」と言われたことが胸に刺さっています。沖縄の問題は私たち一人ひとりが自分の問題にしなければなりません。


  「沖縄に住んでいない、
  しかし基地を押しつけている私たちが問われている」
                  ~落合恵子~

部落差別を憎む №436

部落差別を憎む
平成29年6月17日

 皆さん、もし皆さんが「死ね」と書かれた差出人不明の年賀状を受け取ったらどう思いますか。まず怒り悲しまない人はいないでありましょう。そして、その「死ね」という言葉が差別と偏見に基づいているならば心を深く傷つけられることでありましょう。しかし、これは架空の話ではありません。事実あった話なのです。

 先日、部落差別問題について山口県人権啓発センターの方の講義を受ける機会がありました。上の年賀状の話はその折伺ったことです。部落差別が今なお存在することは私も承知していましたが、こんな非人道的な差別事件があったことに、そして恐らくは無知のまま差別を続ける人間がいることに怒りと悲しみを覚えてなりません。

 私は差別問題はすべての人が逃れることのできない問題だと思います。部落差別に限りません。私たちは自分自身が差別者になる危険を負っていると思います。であれば、私たちは常に差別に意識的であり自らが差別者にならないための努力をしなければなりません。その努力の第一は、差別問題を正しく理解することではないでしょうか。

 講義でまず指摘されたことは、部落差別に陥る三つの危険、「部落差別は過去のもの。差別はもうない」という勝手な思い込み、「そっとしておけば自然になくなる」という「寝た子を起こすな」論、「自分は差別しないから関係ない」という無知・無理解・無関心、でした。まずこの三つの危険を克服しなければ差別はなくならないと言われるのです。

 また、差別の今日的問題として指摘されたのはインターネットでした。いまネット上ではデマ・偏見の差別情報が蔓延し、差別が扇動的に公然化悪質化していると言います。昨年12月、「部落差別解消推進法」が成立したそうですが、この背景の一つにはネット上での差別の深刻化があると言います。これも悲しむべき現実だと思います。

 私たちは偏見と悪意に満ちた差別に苦しむ人がいる現実を直視し、部落差別さらにすべての差別のない社会を実現しなければなりません。繰り返して申し上げます。これは私たち一人ひとり、私とあなたの問題なのです。まずは差別に意識的であること。そして差別問題を正しく知り理解すること。共に努力いたしましょう。


    「部落差別は許されないものである」
         ~部落差別解消推進法・第一条~

また「祥子さん桜」№435

また「祥子さん桜」
平成29年6月12日

 昨年春、このたよりで「祥子さん桜」のことを申し上げました。亡くなった祥子さんが下さった桜の勢いがなくて心配していたところ、花が二輪咲いてほっとしたことの報告でした。でも、なのです。その後、夏の暑さが応えたのか祥子さん桜は再び生気を失い、秋深まる頃にはまるで枯れ木同然になってしまったのです。

 何度確かめても幹が生きている様子は見えません。致し方なく寒中、根元から30㎝程を残して伐りました。最後の望みは根が生きてくれているかどうかです。そして春。境内のソメイヨシノは一斉に見事に咲きました。しかし、祥子さん桜はそのままです。何の変化もありません。やはり駄目だったかと思うばかりでした。

 でも、なのです。ある日ふと見ると、伐り残した幹の先端にポチっと小さな赤い芽が見えるではありませんか。思わず手を叩きたい気持ちでした。根は生きていたのです。その根がまた新しい枝を伸ばそうとしているのでした。昨年二輪の花を見た時と同じように、よかったと安堵に胸をなでおろす思いでした。本当に嬉しかったです。

 いま、その新しい小枝が二本元気に葉を繁らせています。花が咲くまでにはまた何年か掛かるでありましょうが、それを楽しみにしたいと思います。でも、今回しみじみ思いました。祥子さん桜に「咲いた枯れた」と一喜一憂するのは、私がその桜に祥子さんをなぞらえているからにほかならないと。

 考えてみれば、私たちが普段目にしている観音様、お釈迦様、阿弥陀様などの仏像もそれぞれの仏様をなぞらえたものです。同じように、目に見ることのできない死者をなぞらえたものが位牌であり墓碑でありましょう。神仏の依り代とされる樹木や岩や動物などもそのものを神仏になぞらえ見立てるからです。

 死者や神仏と直接交流をすることができない私たちにとっては、それに代わるものを作り、あるいは何かをそれに見立ててつながりを持つことが必要になります。仏像や墓碑位牌、あるいは神仏の依り代は私たちが霊的修行を積む上でなくてはならない大切なツールでもあるのですね。合掌です。

    うつそみの人なる我や明日よりは
      二上山をいろせと()が見む
          ~大伯皇女(万葉集)~

花は苦労の風に咲け №434


花は苦労の風に咲け
平成29年6月1日


 529日は美空ひばりさんの誕生日でした。昭和12年のお生まれですからご存命であれば今年80歳を迎えられたことになります。でも亡くなられたのは平成元年、52歳でした。それからもう29年になりますが、ひばりさんを記念する番組や催しは一向に衰えを知りません。いかに偉大な歌手であったかということでありましょう。

 そもそも、今年ひばりさんが生誕80年ということを私が知ったのもラジオでその話がされていたからです。先日、NHKのアナウンサーであった山川静夫さんが昭和63年にひばりさんにインタビューしたときの録音を改めて聴きながら山川さんとラジオ深夜便のアンカー徳田章さんがともに偲ぶという番組があったのです。

 ひばりさんはコンサート中に楽屋でちょっとインタビューを受けることは多かった半面、きちんと時間を取ってのインタビューはあまり受けることがなかったそうです。それはインタビューを受けるほどの時間もなかったということでしょうが、それだけに今となってはこの時のインタビューは貴重な記録と言えるのでありましょう。

 山川さんはこの時の印象を含めてひばりさんは「必死」の人だったと言われます。インタビューは前年春、緊急入院せざるを得なかった病気回復から間もなく、411日の東京ドームこけら落としコンサートを目前にした時でもありましたから一層、命がけの思いがあったのでしょう。山川さんの「必死は美しい」という言葉に胸迫るものを覚えざるを得ません。

 言われてみれば確かに、ひばりさんの歌は私たちが必死に生きることを応援してくれる歌が多いように思います。東京ドーム公演のフィナーレが「人生一路」だったそうですが、私はこの歌にいつも励まされる思いがします。石本美由起さん作詞のこの3番に表題の「花は苦労の風に咲け」という言葉があるのです。
 歌詞3番は「胸に根性の炎を抱いて/決めたこの道まっしぐら/明日にかけよう人生一路/花は苦労の風に咲け」です。この歌を聴く時、私は涙を振り払いながら悲しみ苦しみに耐えている人が思い浮かびます。ひょっとしたらひばりさんがそうであったのかも知れません。苦労こそ人生なのでしょう。
 

   一度決めたら二度とは変えぬ
   これが自分の生きる道
   泣くな迷うな苦しみ抜いて
    人は望みを果すのさ 
           (人生一路1番)