不断の努力 №762

 不断の努力

令和6年1月17日

いきなり余談ですが、皆さまご存知、千昌夫さんの「北国の春」。この歌は1977(昭和52)年の歌ですからもう47年にもなるんですね~。いえまた何でこの歌の話かと言いますと、この歌は言わば望郷の歌ですよね。歌詞3番とも最後は「あの故郷へ帰ろかな帰ろかな」で終っています。心から故郷を思う気持ちがにじんでいます。

 いや余談失礼しました。この歌1番は「白樺青空南風 こぶし咲く あの丘北国の ああ北国の春」で始まりますね。春真っ先に咲くこぶしは分けて北国の人にとってはうれしい花なのだと思います。春が来たことを実感させてくれるのがそのこぶし。北国の人はこぶしの花に春が来たという喜びを感じたに違いありません。

 しかし、思って下さい。春真っ先に花を咲かせるには真冬のうちにその準備をしなくてはなりませんね。落葉樹の多くは夏から秋にかけて冬芽(冬の休眠する芽)を形成しますが、これは日の長短が関係していると言います。ということは、こぶしの開花は日が伸びたことを真っ先に感じ取ってということなのでしょう。

      厳寒辛夷育花芽   こぶしは真冬も休みなく

      早春先開純白花   春一番に花咲かす

      自彊不息従光陰   時の流れのゆくままに

      流去不断雲水華   水の如くに移りゆく

 因みに仙台の日の出日の入りの時刻を見ますと、1月から2月にかけて日の出は30分近く早くなりますし日の入りは50分近く遅くなっています。つまりは一日のうちで1時間半近く日中の時間が長くなるのですが、こぶしはそれを確実に感じ取って早春にその花を咲かせるということなのでしょう。


 思いました。植物は春夏秋冬、寒暖に関わらず成長を続けていきます。まさに不断。一瞬も活動を止めることはありません。法語に易経の「自彊不息(じきょうやまず・自ら勉めてやむことがない)」という言葉を引用しましたが植物の不断の努力が春には花を咲かせ秋には葉を落とす営為になっているのです。珍重


花開かば 満樹(くれない)

花落つれば 万枝空なり

         「五灯会元」



「共存」考 №761

「共存」考

令和6年1月8日

 前号で共存の祈りの輪を拡げたいと申し上げました。それができたらどんなに素晴らしいかと思います。しかし、祈りの輪が拡がっても共存の実現にはなりません。まずは互いの違いを知ることでしょうが、知った違いを乗り越えるためには容認とか妥協とか宥和とかが必要になるのです。

 先日、面白い話を聴きました。共存を考える上での参考にその話をご紹介しましょう。先達て暮れのこと、奄美諸島の徳之島で飼っていたハブ11匹が逃げてしまうことがあったそうです。どうやら閉め忘れた排水溝から逃げ出したようですが、同じかどうかは別にしてその後11匹は捕らえられたそうです。

 すごいと思ったのは島民の反応です。住民は平然として「共存してます」と言ったのだそうです。むろんハブは人間にとって恐れの対象ですし、他の動物にとっても脅威の存在であることは言うまでもありません。そのハブに対して平然と「共存してます」というのはどういうことなのでしょうか。

 一つにはハブが島の主要農産物であるサトウキビを食い荒らすネズミを食うということがあります。怖い存在ではあるけれども役にも立っている。その思いが「共存」につながっているのでしょう。国立環境研究所の五箇公一さんは「大事なことはこういったものとうまく共存していくというライフスタイル」だと言われますが。まさにそれでしょう。

 昨年秋には東北各県でクマに襲われる人身被害が頻繁に起きました。この原因についてはクマが山でエサにしているどんぐり類が不作だったからだとかクマが人里近くに棲むようになったからだとか言われていますが、これからクマとどのように共存していくかも考えなければならなくなりました。


 暮れ129日に還暦を迎えられた皇后雅子さまがそのご感想で「平和な世界を築いていくために人々が対話を通して相手の置かれている状況を理解しようと努め、互いを尊重しながら協力することがいかに大切か改めて感じます」と言われましたが、まさにこのお言葉こそ人類共存ではないでしょうか。


「地球規模の環境問題は、

 私たちが協力し合いながら

 真剣に取り組まなければならない

 喫緊の課題だと思います」

                  皇后雅子様


「共存を祈る会」同志募集 №760

 「共存を祈る会」同志募集

令和6年1月1日

令和3年のこのたより、11日号で「人類共存元年」ということを申し上げました。その前年、令和2年に発症したコロナ禍が瞬く間に全世界中に広がり、私たちは「3密」を避けながらアマビエに頼るしか手の打ちようがありませんでした。コロナウイルスは人間が撲滅できる存在ではなかったのです。

 その時、私が4歳の孫娘に言われたことが「コロナさんに会わないでね」という言葉でした。コロナウイルスに罹患すればただではすみません。時には死に至ります。そんなコロナウイルスから身を守るためにはコロナウイルスにかからないことしかありません。孫娘はそのことを教えてくれたのです。それが「人類共存元年」でした。

 私はその時思いました。コロナウイルスはこの地球上のあらゆる生物の共存を教えるために出現したに違いないと。地球上の生物はみな意味なくして存在していない。コロナウイルスと人間のように互いの利益に反するものがあってもそれぞれはそれぞれの存在意義を持っているのです。

 私が共存ということを思った時、まず第一に思ったことが人類共存でした。しかし、この3年で私たちは共存が進んでいるでしょうか。否々ですね。ロシアによるウクライナ侵攻、そして昨年からはイスラエルとハマスが戦闘になってしまいました。共存どころか互いのせん滅を意図した悲惨な戦いは終わる気配がありません。

 私はいまこの時、人類の共存を祈る同志を募りたいと思います。私たちに出来ることは祈りしかありません。しかし、皆さんが「共存を祈る会」の自発的会員になって下さり、共存を祈る祈りの輪が百人千人万人と拡がっていけばそれは必ず大きな力になるに違いありません。私が祈りの同志を募る所以です。


 皆さん、観音寺「共存を祈る会」の同志になって下さい。そして一日一回時間を決めて「人類が共存しますように」と祈り、世界の平和を願って下さい。私たち一人ひとりの小さな祈りが大きな輪になって拡がっていけば、そこに必ず人類平和共存への力が生まれます。一人ひとりは小さな存在でも大きな力を生むに違いありません。


祈りの波紋は消えることなく拡がっていきます。