長寿社会再考 №612

 長寿社会再考

令和2年11月28日

 先達ての毎日新聞(11/4)に「あんたが介護するのが当然。孤立の末、22歳女性祖母殺害」という見出しの報道がありました。その記事を読んでそのあまりに痛ましく切ないことにため息しかありませんでした。「大好きだったおばあちゃんを殺してしまった」というその女性の心情にいたたまれない思いを禁じ得ません。

 事件が起きたのは昨年108日と言います。その年、女性は念願の幼稚園教諭になりましたが、それと同時に父(離婚後亡くなった母の元夫)とその兄妹、つまりは祖母の子どもたちから祖母の介護を押しつけられたというのです。要介護4に加えて認知症の90歳になる祖母の介護にろくに眠る時間もなかったという毎日がどんなに辛かっただろうと思います。

 そして5か月、女性は仕事と介護に心身ともに疲れ切り、その日も朝5時半から自分の娘と勘違いして怒鳴り声を上げ続ける祖母に「もう黙って…」と思わずタオルを祖母の口に押し込んでしまったというのです。そして数分後。動かなくなった祖母を見て我に返ったのでしょう。女性は自殺を図った末、自ら110番して逮捕されたといいます。

そして先々月918日、事件の判決ありました。「懲役3年執行猶予5年」でした。弁護側は「睡眠不足や介護起因の適応障害による心身耗弱」を主張したそうですが、判決は「介護による睡眠不足や仕事のストレスで心身ともに疲弊し、強く非難できない」とはしながらも心身耗弱を認めることはありませんでした。

 判決は父親ら祖母の子どもたち3人が女性に介護を押しつけただけでなく入院もさせなかったという親族間の関係性にも付言したと言いますが、それを言うならばどうしてそのことを量刑に反映できなかったのかと思います。介護を押し付けながら何の援助もしなかった親族の道義的責任は大きいのではないでしょうか。

 あまりに痛ましく切ないこの事件は長寿社会わが国の一面を象徴的に表していると思われてなりません。いま学業や仕事の傍ら介護をせざるを得ないヤングケアラーが大きな問題になっていますが介護をする人をどう支えていくかが早急の課題ではないでしょうか。女性の幸せを祈ってやみません。

 


「生まれ変わってもまた

 おばあちゃんの孫として生まれたい」

          <女性の言葉>

「イスラム墓地」問題考 №611

 「イスラム墓地」問題考

令和2年11月23日

 先日(11/25日)の毎日新聞一面トップに「イスラム墓地逆風」と題するニュースがありました。イスラムの人たちがイスラムの教えに従う土葬墓地の造営を計画したところ、土葬に抵抗感を持つ地元の人たちの反対にあって計画がとん挫しているというものでした。いま日本に住むイスラムの人たちは土葬できる墓地がなくて困っているというのです。

 墓地に反対する人たちの根底には土葬になじみが薄くなったという時代背景があると思いますが、火葬が一般化したのはここ6,70年のことに過ぎません。子ども時代、土葬を見た方もお出でと思いますが、わが国でもちょっと前までは土葬が当たり前で私たちはその土葬に何の抵抗感もありませんでした。

 それはさておくとしても、「大地震の時遺体が出てくるのではないか」という反対理由は反対のためのこじつけのように思われてなりません。反対理由には「町のイメージダウンにつながる」というのもあったそうですが、まだその方が想定事項としては範囲内という気がしますが如何でしょうか。 

 しかしどちらにしても上の二つの反対理由の根底にあるのはイスラム人とイスラム教に対する不安と偏見が生んだ差別ではないかと思います。実体と現状を正しく理解しないまま生まれた不安と心配がもたらした差別ではないかと思うのです。私たちが最も避けなければいけない差別といじめではないかと思うのです。

 このことはコロナについても全く同じことが言えます。いまコロナウイルスに対する不安や恐れが誹謗や中傷、差別を生んでいることが大きな問題になっていますね。私たちはある特別な状況になるとそれに過剰反応してしまう危険性を持っています。正しく冷静な判断ができなくなってしまうのです。

 私たちがコロナに学んだ最大の教訓は「共存」だと思います。地球上の生物は共存するしかありません。もちろん人類もです。民族宗教文化の違いを認め合って共存することが不可欠なのです。私たちはそのことをコロナに学んだのではないでしょうか。「共生」の前に「共存」。いまそのことが強く思われてなりません。


それぞれが それぞれに知恵 出し合って

それぞれ生きる それが共存


命なりけり №610

 命なりけり

令和2年11月17日

 この「命なりけり」という言葉で思い出す歌と言えば皆さまもきっと西行法師の「年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけりさやの中山」を思い浮かべるでありましょう。「命なりけり」という言葉は西行さんの造語ではありませんが、西行さんのこの歌ほど「命なりけり」という言葉の響きを見事に表した歌はないと思います。

 それはこの歌が実際の歌だからに違いありません。さやの中山は今の静岡県掛川市から金谷町に到る山道で東海道の難所でした。歌は重源さんとの約束で大仏再建の砂金勧進のために再度陸奥に赴く道中で詠まれたものですが、時に西行さん69歳。23歳で出家してから行脚を続けていたとはいえきつい峠道に感慨ひとしおであったことは申し上げるまでもありません 

        冷涼一段白秋窮    秋一段と深まって

        石蕗凛凛咲寒風    凜と咲くつわぶきの花     

        今年今月共露命    今年もこうして会えたねと

        相知諸行無常裏    移りゆく世に思いを致す

 上の詩は今日の法語ですが、上の西行さんの「命なりけり」に思いを重ねて作りました。毎年この季節になると咲くつわぶきですが、この花が咲くと私は今年も会えたねという思いがするのです。冷たい北風が吹くころ、それも日向というよりはむしろ木の陰など日陰に凜と咲くこの花に魅かれるものを感じるのです。

 露命とは露のようにはかない命です。私たちは明日もあさっても変わりなく命が続いていると思っていますが、それは実は勝手な思い込みに過ぎませんん。それを思えば一年たって再び相まみえることができたということは奇跡と言ってよいのではないでしょうか。まして西行さんのように何十年も後に同じ道を踏んだ感慨は特別であったことでありましょう。

 命なりけり、という言葉にあるのは無常感でありましょう。私たちは無常の存在です。季節が移り変わるように私たちも年々歳々の変化を続けています。いえ年々歳々どころか瞬々刻々の変化を続けているのです。だからこそ貴い命貴い出逢いなのです。今日のいま今日の一日が再びはない時再びはない日なのです。


  一期一会