供養の本質 №550

供養の本質
令和元年8月17日

盂蘭盆(うらぼん)(お盆)という言葉がイラン民族における死者の霊魂を表わす言葉「ウルヴァン」に由来していることは申し上げたことがありましたね。イランではそのウルヴァンを祀る祭事の時、死者が子孫の家に無事帰れるように芳香のある杜松(ねず)を燃やしたと言います。これはまさに迎え火ですね。お盆の発祥がイランにあったことを実感させられます。

 ところで、イランに死者の霊魂を祀る行事が存在しているということはイランの人たちが死者が個別の魂として存在することを信じていたということになりますね。だからこそ当日は香りの高い杜松を焚いてお出でを待ち、用意した美味しい食べ物を召し上がって頂いたのですね。私はそれこそが供養の原型だと思います。

 皆さまもお盆にはご先祖さま初め亡くなられた方々のご供養をして下さったと思いますが、その供養は一義的には死者のために行われる祀りですね。供養というのは美味しい食べ物をお供えするというのが原義ですから亡くなった人たちに美味しい食べ物を召し上がって頂くことがお盆そのものということになります。

 以前紹介したウィリアム・L・ウォーナー(たより№139)が言う通り私たちの地域社会が「生者と死者を構成員とする共同体」であるならばお盆に限らず死者を供養することは絶対と言ってもよいほど大切なことであるはずですが、残念なことに近年とみに人々の心にこの供養心が薄らいでいるように思えてなりません。

 そこで私は供養の持つもう一つの意味について申し上げたいのです。供養の第一義は死者のためだと申し上げましたが、実はそれに付随してもう一つの大切な意味があるのです。それは供養が死者のためであると同時に自分のためであるということなのです。死者のために行う供養が実は自分自身のためなのです。

 亡き人に 祈りの力 差し上げて 我も頂く 供養のおかげ
 
 これは先達て思い至った歌ですが、この歌の通り供養する者は死者への力送りと同時に供養が持つ力をお蔭として頂くことができるです。そのお蔭は死者からの力かも知れませんし供養が持つ力かも知れません。いずれにしても供養は人智を越えた力を持っていると思います。
 
  供養することなくして
  供養されることなし
 
 
 

平和の祈り №549


平和の祈り

令和元年8月15日
 
 今日815日。日本が太平洋戦争に敗れ無条件降伏した日から74年の日です。多くの命が失われた広島長崎への原爆投下からも同じ年数がたちました。振り返って日本はいま平和と言えるでしょうか。戦後生まれの人たちが大半になって戦争の記憶が風化する一方の今日本はかろうじて平和の国というより“疑似平和の国”になっていないでしょうか。

 先日「広島原爆の日」の6日、「長崎原爆の日」の9日、松井一実広島市長、田上富久長崎市長はそろって日本政府に核兵器禁止条約に署名・批准することを求めました。しかし、安倍首相は今年も核兵器禁止条約には言及しませんでした。「核兵器のない世界の実現」という言葉を使いながらも「核兵器国と非核兵器国との橋渡しに努める」としか言いませんでした。

 私が今の日本が疑似平和国であると思うのは上に象徴される国民と指導者との平和に対する意識の差です。日本は原爆被害の悲惨と恐怖を身をもって知らされた唯一の被爆国です。原爆の恐ろしさを世界に訴えることができる国として広島長崎の市民と私たち国民がこぞって核兵器廃絶を世界に訴えてその実現を図らなければならないはずです。

 しかし、唯々残念ながら日本政府は私たちの願いとは逆の方向を向いているとしか思われません。国連で核兵器禁止条約が成立したのは2017年ですが、日本はいまだにこの条約に署名・批准をしていません。する気がないのは一つにはアメリカへの忖度、そしてもう一つは世界に訴える日本独自の平和外交がないからです。

 いま世界で大国と言われる国の指導者はいずれも真の平和主義者とは思われません。トランプ米大統領、習近平中国国家主席、プーチンロシア大統領。いずれも口では平和を言いますが、していることはむしろ逆。米露両国にはなお13000発以上もの核兵器があると言いますし両国ともに新型核兵器の開発に血道を挙げているのが現実なのです。

 私たちはこれからも一人ひとりが世界平和を願いそして祈り、自分ができることを草の根的にしていかなければなりません。その一番は各国が真の平和指導者を選ぶことではないでしょうか。核兵器禁止条約を力あるものにするにはまず各国の指導者を真の平和主義者にしなければなりません。私たち日本もそれができるのです。



また言うよ。
「平和をあなたにもたらすことができるのは、
          あなただけだ」 
          
              <エマソン>

真実のありか №548

真実のありか
令和元年8月10日

 当山口県は先月24日に梅雨明けしてから連日のように暑い日が続いています。その後各地で梅雨明けしていますから皆さんのところも暑い夏になっていることでありましょう。近年夏の暑さに参るばかりの私にとって秋風になるまでのしばらくは炎熱地獄と言ってもよいほど過酷な日と申し上げて過言ではありません。

     炎炎熱暑覆都城  町中暑さに覆われて

     一切森閑無音声  静まり返って音もなし

     一人吾佇立其中  ひとり炎暑に佇めば

     只知宇宙玄玄誠  そこにこそ見る宇宙の真理

 上はこの夏法要の法語ですが去年も今年もよほど暑さに耐えかねているのでしょう。今年の法語は昨年の法語と同趣旨のものになりました。動くものなく声一つ聞こえぬほど暑い真夏の昼下がり。陽は容赦なくあたりを照りつけて止みません。しかし、その熱暑の中に立ってみると、そこにこそ真夏の真実があると思われたのです。

 禅の言葉に「柳は緑花は紅」というのがありますね。春になれば柳は緑に芽吹き花は紅に咲きます。そこに何の不思議もありません。しかしその当たり前のことに改めて気づく時当たり前のことが世界の真実を示していることを知ります。夏は暑く冬は寒い。その当たり前のことを改めて知るとそこに真実をみることができます。

 道元禅師が五年にわたる宋での修行を終えて帰って来られた時言われたのが「(山僧)天童先師に(まみ)えて(がん)(のう)()(ちょく)なることを認得して人に(あざむ)かれず。すなわち空手にして郷に還る」という言葉でした。この眼横鼻直(人はみな眼は横に鼻は縦についている)も当たり前のことに真実を見出した言葉に他なりません。

 悟りというと、私たちはそれが特別な時間や空間にあるように思いがちですが決してそうではありません。ご案内の葉書に「さとりとは 夏は暑いと 気づくこと 小さな気づき 重ねゆくこと」と書きましたが、悟りというのは何でもない日常にこそあるのだと思います。その日常を注意深く過ごすことこそが大切ではないでしょうか。

 
誰もみな春は群れつつ遊べども
 こころの花を見る人ぞなき
        ~ 夢窓国師 ~



 

ガン化する人類 №547

ガン化する人類
令和元年8月9日

 つい先達て京都アニメーションスタジオでの放火殺人事件では35人もの人が亡くなり、それと同数の人が重い火傷を負いました。犯人は下見までして周到に準備しスタジオに入るや「死ね!」と声を発してガソリンに火を放ったと言います。アニメづくりという特異な才能を持った人たちの無残な死に哀悼の念を禁じ得ません。

 思えば3年前の7月、相模原の津久井やまゆり園でも入所者19人が元職員の男に殺害されるという悲惨な事件がありました。その犯人は反省どころか今なお「人の金と時間を奪っている障害者は必要ない」と言っていると言います。その根幹には優生思想があるのでしょうが、一言で言えば稚拙かつ身勝手な考えと言うべきでありましょう。

 京都アニメの犯人がどのような考えで凶行に及んだかは分かっていません。が、想像するところは同じように独りよがりな考えで犯行に及んだに違いなく、そこに「ガン化する人類」を思わざるを得ません。ガンは自己中に増殖と転移を繰り返しますが、そこにあるのはまさに身勝手そのものです。知ってか知らずか自分をも滅亡させる身勝手です。

 私はいま人類がガン化しつつあるのではないかと思えてなりません。トランプ大統領、習近平国家主席、プーチン大統領ら米中露の指導者が自国第一主義で国益確保と覇権拡大に狂奔していますがこれは喫緊の課題である地球環境の保全を後回しにした身勝手でしかありません。それはガンそのものであり、人類が地球のガンになったということに他なりません。

 そのような状況にあってこれから人類はどこに向かうのでしょうか。これは日本でも同じですがいま世界で命の選別に関わる優生思想やネオナチの台頭が人類の将来に不安をもたらしていることは改めて申し上げるまでもありません。ともに人類同胞として許されざる考えであり独断的で稚拙な「身勝手」と言うべきでありましょう。。

 この身勝手を止めるのは教育の力だと思います。幼少年期に人としてしなければならないこと、してはいけないことを徹底して教えるべきだと思います。それともう一つ、自然や神仏に対する畏敬の念と感謝の思いを教えるべきだと思います。この畏敬の念と感謝の心は教えられたことを守る力になると信じて止みません。
 
 
われわれはどこから来るのか? 
われわれは何者なのか?
われわれはどこへ行くのか?
        <ゴーガン>