帰ってきた帽子 №260

帰ってきた帽子 №260
平成26年 4月21日

帰ってきた帽子


  先達てのことです。私は毛糸の帽子を電車の中に置き忘れました。電車の中と言っても乗り換えた三つの電車のどれかもはっきりせずでしたから、その帽子を再び手にすることはまず不可能と思いました。ところが、何と三日の後にその帽子が帰って来たのです。感動でした。不注意で忘れた帽子を再び手にすることが出来たのです。

 
 ことの顛末はこうです。先日、所用で神奈川に行った帰り道のことです。四月初めから引いていた風邪が一向によくならず、その折も冬さながらの毛糸の帽子を持っていたのですが、さすがに新幹線の車内は暖かくて帽子を脱いだのがいけませんでした。小月駅に戻ったその時、私は帽子を車内に置き忘れたことに気づいたのです。
 
 その時は諦めの気持ちでした。しかし、一日たって思い直しました。もし忘れものとして届けられていても自分が探さなければ、帽子はいずれ処分されてしまうに違いありません。冬の間お世話になった帽子への愛着心と同時に届けたら見つかるだろうかという好奇心もありました。で、JR西日本の遺失物係に問い合わせをしたのです。
 
  びっくりでした。何とその日のうちに該当の帽子があると電話があったのです。そしてその翌々日、帽子は再び私の手元に帰って来ました。正直嬉しかったです。と同時に、こんな些細な忘れものが再び持主に帰るというJRのシステムのすごさに感動でした。さすが世界に誇る日本の鉄道はこんなサービスまで可能なことを実感させられました。
 
 しかし、今回のことで私はもう一つ考えさせられることがありました。それは愛着心です。人は誰でも身近に長年使っているものには愛着心を覚えます。これは物でも人でも同じでしょう。愛着を持つということは決して悪いことではありません。しかし、これを仏教語として「あいじゃく」と読むと意味するところが変わって来ます。
 
 仏教語としての「あいじゃく」は欲望に捉われた執着、愛執です。物でも人でも愛おしく可愛くてたまらぬとなれば、それは煩悩になります。私が自分の帽子にこだわったうちにこの愛執がなかったとは言い切れません。期せずして帰って来た帽子を手にして眺めながらつくづく思ったことでした。

 
 

 渇(むさ)(ぼり) うれ 
おそぜん を  うれいし 
             法句