鰯の頭も信心から №9

平成21年2月3日

鰯の頭も信心から


 今日は節分。遠い昔、節分の日の夕方は焼いた鰯の頭と柊の小枝を門口に刺して回ったことが思い出されます。この素朴な行事を皆様のおうちでは今でもされているでしょうか。「鰯の頭も信心から」という諺は実はこの風習から生まれた言葉なんですね。鰯の頭のようなものであっても一心に信心をしたら、それが不思議な力を発揮する有難く尊いものになるという意味です。

 考えると、今日の星祭りのお札を初めお守り類にも同じことが言えるのではないでしょうか。お札もお守りも言ってみれば紙切れです。神仏を信じない人から見れば鼻紙にもならないということになるでしょう。しかし、それを信じる人にはお札やお守りは神仏そのもの、観音様そのものなのです。

 神仏は信じる人に実在する、というのが私の年来の思いですが、西洋にも同じように「奇蹟はそれを信じる人に起きる」(Miracles are those who believe in them)という諺があることを知りました。一心の祈りがあるからこそお札もお守りも単なる紙切れではなくなり結果としてお蔭、恩寵ということが実感されるのだと思います。

 ついでながら、星祭りの意義について再び申し上げたいと思います。先達ても申し上げましたが、私たちは平生自分の意志で生きているように思いながら実は心臓の動き一つ意のままにはならないというのが真実です。「生死仏意」という言葉がありますが、死ぬも生きるも神仏のまにまにお任せするしかないのが私たち人間なのですね。

 「災難に遭うときは災難に遭うがよろしく候。死ぬときは死ぬがよろしく候」と言った良寛さんのようにはなかなかなれませんが、人間を含め宇宙を司っている存在に畏敬の念を抱き生かされていることに感謝することが星祭りの最大の意味であると思います。今日の出会い、今日の命に御礼申し上げます。

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