阿修羅のごとく №30

平成21年12月17日

阿修羅のごとく


 十月でしたか観音経に出てくる八部衆の一人、阿修羅についてお話したことがありましたね。あの後、私はふと思い立って向田邦子さんの『阿修羅のごとく』を読み直したのです。作品から受ける印象はやはり重いものがありました。最初に読んだのは何時だったか忘れましたが、ドラマの中のこと、他人事と思っていたことがより痛切に感じられてなりませんでした。それはとりもなおさず自分のこれまでの生き方が決して立派なものではなかったということであり、恥多く忸怩たる日を過ごしてきたということに他なりません。


 ですから、そのことは棚に上げて今日私がお話ししたいのはこの『阿修羅のごとく』が持つ時代的意味です。今回私が読んだのは丁度十年前に出たオリジナルの文春文庫なのですが、何とその解説を書かれているのがつい先達て亡くなられた南田洋子さんなのです。               
南田さんはその解説の中で(作品から)「二十年の間に変化して男性も阿修羅になる可能性が十二分に出てきています。今、人々は精一杯自由に生きたいということで強く権利を主張しますが責任とか義務とかは希薄になっているように思われます。そういう中で社会人としてきちんと生きていくための自由と義務と責任のバランスが崩れた時、阿修羅になるのではないでしょうか」と言われているのです。

南田さんがこの解説を書かれてからさらに十年を経過した今、私は南田さんのご賢察に脱帽の思いがします。南田さんは最後にもう一度「阿修羅のごとく、というのは今、老若男女を問わずすべての人にあてはまるような気がします」と言われていますが、全くその通りです。今は日本の社会全体が阿修羅のごとくになっているのではないでしょうか。南田さんが喝破された通り私たちは権利を主張する一方で責任や義務を忘れているように思われてなりません。道遠し。しかし阿修羅が今では仏法の守護神となっているように私たちも仏法に叶った生活を目指したいと思います。
 

 


人みなわが飢えを知りて、人の飢えを知らず
沢庵禅師~


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