行持綿密 №52

平成22年7月17日 

行持綿密


 僧侶には三つの関門があります。その第一は得度。まずはお釈迦様の弟子、仏弟子となる儀式です。第二は立身。これは修行の寺で首座(しゅそ)となって精進に努め法戦式(ほっせんしき)という法の問答を行うことです。そして第三が嗣法。これは師匠からお釈迦様の法を受け継ぐことです。

 個人的な話になりますが、私は三つ目の嗣法を形だけしかしていませんでした。嗣法は一週間かけて行うものですから準備からして大変なのですが、先月末いよいよその儀式をして貰うことになったのです。しかし嬉しさの反面私は些か憂鬱でした。儀式の前に覚えること、嗣法の一週間にしなければならないことが沢山あるのです。

 なかでも最も時間を要するのは三物と呼ばれる「血脈」「大事」「嗣書」の書写しです。これは蛇行する朱線上にお釈迦様から師匠、自分に至るまでの祖師方全部のお名前を師匠が書いたものをモデルに絹の布に書くのです。分けて「嗣書」は円形になっていますから均等にきちんと書くのは相当な根気と集中力を必要とするのです。

 しかし、どうやら書き終わって師匠が書かれたものと見比べた時、私は愕然とせざるを得ませんでした。どう見ても私のものが雑なのです。勿論書き手が違えば印象が異なるのは当然でしょうが、見比べて雑であることは覆うべくもありません。私は師匠と自分との差を改めて痛感せざるを得ませんでした。
 

 日々の修行を弛むことなくきちんと行っていくことを「行持(ぎょうじ)綿密(めんみつ)」と言います。私の師匠は毎日の務めをゆるがせにする人ではありません。どんなこともいい加減な妥協をすることはありません。まさに行持綿密の人なのです。見比べて私は自分のいい加減さをはっきり見せつけられる思いでした。考えればこれはすべての人に当てはまることかも知れません。生活の一つひとつを一生懸命大事にしていくことが「行持綿密」といえます。私はまさに不肖の弟子。忸怩たる思いの嗣法でした。
 


    精進(はげみ)こそ不死の道
       放逸(おこたり)こそは死の(みち)なり
              ~法句経~