「手を洗わせて下さい」
これは友人から聞いた話です。
ある日、友人が砂浜の海岸を散歩していると、後ろから「手を洗わせて下さーい」という声がして、振り返ると四、五歳ほどの小さな男の子が海に向かって走って行ったのだそうです。きっと砂遊びしていた手を洗いたくなったのでしょう。とっさに上手く洗えるかなと見ていると案の定、手だけでなく足元まで波に洗われてしまったというのでした。波打ち際で手を洗うというのは難しいものですよね。
でも、見ていた友人とこの話を聞いた私が共に感銘を受けたのは、その男の子の「手を洗わせて下さーい」という言葉なのです。男の子はどうやら祖父らしき人と一緒だったようですが、その言葉は祖父から教わったものではなく男の子の自然な言葉であったとしか考えられません。とすれば、男の子はどうしてその言葉を海に向かって叫んだのでしょうか。私はそこに男の子の純真な魂を覚えざるを得ません。
「手を洗わせて下さーい」という言葉を省略せず言い直せば「お願いします、海さん。手を洗わせて下さい」となるはずです。男の子は海に向かってお願いをしたのです。願いというのは、何かをしたくても自分にその能力がない時、あるいはたとえあっても状況的に出来ない時にそれを叶えてくれる存在にその実現を祈ることです。ですから、男の子のこの言葉は海に向かっての祈りであったということなのです。
私は人間は祈りの存在だと思います。生きること自体が祈りだと思います。私たちは普段そのことをほとんど意識しません。多くは苦境に立って初めて祈りを思いますが、本来は毎日が祈りであると言えましょう。瞬々刻々が祈りであるはずです。「手を洗わせて下さーい」という言葉は、男の子の純真無垢な魂が私たちにそのことを教えてくれた言葉であったと思います。心洗われる話でした。
そのままに 生まれながらの心こそ
願わずとても 仏なるべし
~一休禅師~
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