耳を澄ます №75

平成23年3月15日

耳を澄ます

 この19日は旧涅槃会です。当観音寺は2月15日に致しましたが、お釈迦さまがお亡くなりになったのは陰暦2月15日と伝えられていますから今年はこの3月19日が正当の涅槃会ということになります。お釈迦様の涅槃には時ならぬ沙羅双樹の花が咲いたと言われていますがインドの3月ならば起こり得ることではなかったでしょうか。

 ところで、先月の会でみなさまと遺教経を読んで、その最後に出てくる「(なん)(だち)しばらく()みね、また(もの)いうことを得ること勿れ」という言葉は何を意味しているか考えてみて下さいと申し上げましたね。その時、私は自分の解釈として昨年同様、この言葉は坐禅の大切さをおっしゃったのでは、と申し上げました。お釈迦さまが生涯大切にされた修行は坐禅であったのですから、最後にもう一度坐禅のことをおっしゃって不思議ではありません。

 でもその後、改めてこの言葉を考えていてふとひらめいたのが「耳を澄ます」ということでした。坐禅をしている方はもちろん、いつもの「静寂の時間」でもお気づきの方がお出でかと思いますが、人間無になろうとすればするほど雑念が起きてくるものです。よく坐禅は無念無想なんて言いますが、坐禅で無念無想なんてまずあり得ないと思います。

 で、私はいつの頃からか、坐禅の時「耳を澄ます」ことを覚えたのです。耳を澄ますということはもちろん動いていたりしゃべっていたりしたら出来ません。坐禅の時、静かにひたすら耳を澄ますという態度がいつの間にか自分を坐に没頭させてくれることを知ったのです。無念無想にはならずとも、調心調息になることは確かだと思います。
 
 そう言えば、観音様の「観世音」の意味は「世音を観る」ということであり、それは取りも直さず「耳を澄ます」ということではないかと思います。観音様は世音を聴くことで世の人を苦しみから解放して下さいますが、私たちは耳を澄ますことによって自分の本心を見るのではないでしょうか。


     耳を澄まして 思い出す
        幼き日の 水の音


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