汗が流れる… №334

汗が流れる… №334
平成27年 8月10日


汗が流れる… 
 
 頂いた暑中見舞いに「八月は むいかここのか 十五日」とありました。確かに、です。毎年のように申し上げていることですが、八月は六日、九日が広島、長崎の原爆忌。十五日が敗戦記念日。投下された二つの原爆と戦争の犠牲になった数多くの命の冥福を祈る八月。戦後七十年の今年改めてそのことを思います。
    
     炎天灼熱覆山丘     夏の暑さを草や木が
     草木悉皆動静幽     息を殺して忍ぶ時
     而無常不断流水     流れて止まぬ川のごと
     生々流転逝不留     我また時と過ぎて行く
 
 戦後七十年、ということは、終戦の年、昭和20年に生まれた人が七十歳、古稀を迎える歳になったということです。七十年の時が経ったということは、自分自身が七十年を過ごしたということです。私は終戦の年には二歳でした。改めて自分の今をもたらした茫々たる時間に畏れを持って思わない訳にはいきません。
 
 若い頃の夏、永平寺に参禅して教えられたことがあります。指導の僧が「じっと坐っていても汗が腋の下を流れる。それは汗が流れたのではない。自分が流れたのだ」と言われたのです。驚愕の言葉でした。汗が腋の下を流れる、その僅かな時間にさえ自分が変化しているということ、ものの変化は一瞬の停滞もないことを教えられたのです。
 
 道元禅師に「命は光陰に移されて(しばら)くも(とど)め難し、紅顔いずくへか去りにし、尋ねんとするに(しょう)(せき)なし」という言葉があります。まさにこのお言葉の通りです。時間の世界に生まれた私たちは一瞬一刻も留まることがありません。瞬々刻々に変化して止むことはありません。七十年の歳月が紅顔の少年少女を白髪の老爺老婆に変えてしまうのです。
 
 お釈迦様の教えの根本は「諸行無常」です。私たち人間はもちろん、あらゆるものが不変不定ではあり得ません。一切のものが変化し続けるのです。戦後七十年、私たちは改めて七十年の意味を考えると同時に自分自身の七十年を振り返って残された時間を無為に過ごすことがないよう努めたいと思います。

 


      人みな無常をまぬがれず、ついに一度は
         黄泉の旅におもむく。
                     日蓮上人











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