「雲水」考 №693

 「雲水」考

 令和4年8月10日

 ものはすべて変化します。すべてのものは変化していきます。例外はありません。我が身を振り返ればそれが納得されるでありましょう。私たちはみな赤ん坊の時がありました。赤ん坊の時を記憶している人は少ないと思いますが私たちは誰一人残らず赤ん坊でありました。しかし茫々ン十年。いまの自分には赤ん坊のかけらさえありません。

 その変化、一刻も留まることのない移り変わっていくことを象徴的に表しているのが「雲水」でありましょう。雲水は雲や水のように諸国を行脚する禅僧を指す言葉になっていますが実は雲や水のように変化しながら人生という旅を続けるという意味では禅僧に限りません。そう思っていて次の法語をつくりました。

      行雲悠々漂蒼穹   雲はゆったり空をゆき

      流水蕩々遊海風   水は流れて海にゆく

      雲水人間回三界   三界めぐる人も同じく

      無常永遠而無窮   永遠無常の旅をゆく

 悠々と空をゆく雲。しかしその雲も常に変化しています。大きくなったり小さくなったりしていてひとときも固定した状態にはありません。水もまた同じです。川となって流れていても早瀬になったり淵になったり一刻として同じ状態ではないのです。私たち人間も全く同じです。雲や水と同じように変化を繰り返しながら旅をしていくのです。

 その変化の旅を修行という言葉に言い換えるならば私たちの毎日は修行です。私たちに一日として同じ日はありません。毎日毎日が変化の日。その毎日毎日の変化の日が私たちの修行の日々なのです。前にも申し上げたことがあるかも知れません。修行は僧侶に専属するものではありません。私たちすべての人の課題なのです。


 私は人が生きること、それが修行だと思っています。生きる毎日は楽しいことばかりではありません。つらいこと悲しいこと悔しいこと腹が立つことがあります。それらに対して喜んだり悲しんだり悔しがったり怒ったりすること、それが修行でなくて何でありましょう。一生は修行。毎日の修行が人生なのです。



世の中は何か常なる飛鳥川

昨日の渕ぞ今日は瀬になる

           古今和歌集


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