「老年的超越」 №294

老年的超越 №294
平成26年11月10日

「老年的超越」
  ここ二三年、このたよりで長寿の話題になると、今の日本、長寿イコール幸せではない、と申し上げてきましたが、歳を重ねるということには勿論よいこともあります。その昔、老人が長老として崇められたのは、老人が人間と神仏の仲立ちをすることが出来たからでしょう。それは年を重ねることによって生まれる力なのです。
 
 そうしたら先日、標題の「老年的超越」という言葉を耳にしました。NHKテレビクローズアップ現代「“百寿者”知られざる世界~幸せな長生きのすすめ~」を見ていたら「8090歳代を境に老年的超越と呼ばれる現象がある。これまでの老いの常識を覆して、百寿者は想像以上に豊かな精神世界に生きていることが分かってきた」と言うのです。
 
 番組の中で100歳を超えた方々の談話がありましたが、そこに共通していたのは「今が幸せ」「有難い」という多幸感でした。あらゆることに幸せを感じ、出来ないことが増えても出来ることに喜びを感じ、その多くの方が見えない人々とのつながりを感じていると言います。年を取るよい条件とは若さを追い求め、若さを保つことだけではないと言うのです。
 
 聴いていて思いました。老年的超越とは達観、つまり悟りではないかと。8090年を生きるという“修行”の結果ではないかと。とするならば、仏の教えを信じて生きることができれば、百寿にならなくてもこの老年的超越に到達できるに違いありません。修行とは自分を追い込むことです。自分を追い込んだところに新境地が生まれるのです。
 
 庭掃きの竹箒に当たった小石の音に大悟した香厳さんも桃の花を見て悟った霊雲さんも偶然に悟ったのではありません。 悩み苦しみの果てに頂いた機縁が跳ね返った小石の音であり今を盛りと咲く桃の花であったのです。祖師方はみな人生の疑団に悩み苦しみ、自らを追い込むことがなければ悟りを開くことはなかったのです。
 
 私はお釈迦さまを信じることが出来なくてもいいと思います。悩み苦しみの人生にあって、よいことに努め悪いことはせず、人を憎まず人の幸せを祈ることが出来れば、それで充分だと思います。とはいえ、それは決して容易なことではありません。自分自身との格闘です。自らを追い込むことなのですから。

 


           いつ死んでも ありがとうや
                     大西良慶 








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