平成26年12月 3日
職業論・人間論
その意味では、仕事に携わっている人、いや、生きている人すべてに同じことが当てはまります。実は今私がこのことを申し上げているのも、僧侶としての自分には常に「僧侶とは何か」という問いが突きつけられているからです。私にとって、僧侶としての原点は「祈り」です。祈りの人になりたい、祈りの人生を全うしたいというのが、その初心なのです。
しかし、僧侶とは何か、と考えた時、初心の祈りと同時に社会的活動にも参加すべきではないかという思いがあります。地域に存在する寺であるならば、地域や社会に積極的に関わっていかなければならないのではないかという思いです。これを生き方と考えれば、このことはすべての皆さんに通じるのではないでしょうか。
働いている人には、その職業が果たすべき任務の達成のために、何をどのようにすべきかが求められます。一家を預かる主婦という仕事も同じです。主婦には主婦とは何かということが求められています。掃除洗濯炊事等の家事から育児、雑事まで幅広く沢山のことをこなしながら、その真のあり方を考えなければなりません。
そして、私たちにとって究極の職業論は「人間論」です。人間として生まれて来た目的の一つは、人間とは何か、を考えることです。人間という不思議な存在についての理解を深め、自分が生まれて来た意味と目的を考え続けなければなりません。自らの魂の向上と人間世界の進歩のために「人間論」に努めなければならないのです。
この世に存在するものに無意味に存在するものはありません。生きとし生けるものはむろん、家具雑貨小石に至るまで意味を持って存在しているのです。そして存在するものは必ず果たすべき役割を持っています。私たちは自分自身を含め、そのすべてが存在の意味を全うできるよう努めなければならないのです。
こッつん こッつん 打たれる土は よい畠になって
よい麦生むよ。朝から晩まで踏まれる土は よい路になって
車を通すよ。 「土」金子みすゞ
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