平成26年12月10日
紅葉幻想2
<……一体いつなのだろう。千年も二千年も前のように思える。森の奥遠くで誰かが呼んでいる幽かな声。私は一人、散りしきる紅葉の中に立っていた。聴こえるのは降り注ぐ紅葉が地に落ちるかそけき音ばかり。それが一層、真空のような静かさを感じさせる。山の法の所々に見える午後の木漏れ日。私は時間を失っていた。……>
夢なるか現なるかも知らずして吾立ち尽くす紅葉降る山
はらはらと紅葉散るなか吾はいま生きてやあらむ死にてやあらむ
とめどなく風のまにまに散る紅葉この世あの世を紛ふが如く
紅葉咲く山の小径に午後の陽の木漏れ日差してたゞ静かなり
先達て11月末のことです。長門の大寧寺さんからの帰り道、木津近くの西念寺さんに寄りました。大寧寺さんは県内有数の紅葉の名所ですが、この西念寺さんは知られざる紅葉の名所です。四年ほど前、初めてここの紅葉を知ってその幻想的な雰囲気に感動しましたが、今年またその折と同じように降りしきる紅葉を見ることが出来ました。
西念寺さんの紅葉林は本堂の建つ山の斜面にあります。四年前は右手斜面の紅葉しか気づきませんでしたが、実は本堂に上がる階段の途中に回遊路があって、その回遊路から紅葉を見上げたり見下ろしたり出来るのでした。今年初めてそれを知って、午後の陽に輝く色とりどりの紅葉を心行くまで味わうことが出来ました。
上の四首はその時のものですが、深い山に迷い込んだような中で真っ赤な紅葉を見ていると、四年前と同じように、自分がいまどこにいるのか、この世なのかあの世なのか、今なのか過去なのか、自分は生きているのか死んでいるのか、という不思議な思いに駆られます。それほどに幻想的な景色でありました。
古代、死者の魂は山に行くと信じられていました。散りしきる紅葉の中にいると、そのことが素直に感じられます。上代、枕詞「黄葉の」は「移る」や「過ぎる」「散る」に掛かって死を表わす意味に使われましたが、古代の人々は、はかない命を紅葉になぞらえたのでありましょう。実感の思いでした。
ま草刈る荒野にはあれど黄葉の
過ぎにし君が形見とぞ来し
柿本人麻呂
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