「悼む人」2 №321

「悼む人」2 №321
平成27年 5月 5日


「悼む人」2 
 
 先日のたより「悼む人」(№317)で小月第九区の殉難者慰霊のことを申し上げましたが、今年も425日に区長さん始め、有志の方々の参列を得て慰霊法要が行われました。今年でもう八年、その法要のご縁を頂いている観音寺としてお礼旁この第九区の殉難者慰霊についてその由来を申し上げたいと思います。
 
 第九区の殉難者慰霊碑は山陽本線、小月小島の踏切のすぐ近くにあります。この踏切はかつて鉄道事故で亡くなる人が多かったそうですが、その中には事故ばかりでなく自死によるものも少なくなかったようです。慰霊碑は昭和36年に造られていますが、碑の発願には自死した人の供養という意味も大きかったに違いありません。
 
 当時、戦中戦後という時代を考えれば人々の生活は決して楽ではなかったはずです。衣食住に困窮し、当てもない絶望の日を送っていた人も多かったに違いありません。そして自死の一因がその生活苦であったならば、その死はまさに非業の死、無念の死です。だからこそ九区の方々が碑を造ってその慰霊を発願されたのでありましょう。
 
 慰霊はその後中断してしまいましたが、それを復活して下さったのが現区長の古本政昭様です。私は古本様が慰霊を復活して下さった意義は大きく、文字通り有難いことであると思います。第一に非業の死を遂げた魂に対して、そして第二に第九区々民にとって、これほど意義深く価値あることはありません。
 
 「悼む人」の通り、亡くなった人にとってその人が存在したことを記憶にとどめてその供養をして貰うことほど嬉しい力づけはありません。悼むとはその力づけを言うのです。そして地域の人がその供養をして下さるということは、同時に死者の力を頂くことになるのです。私たちのこの世はこの世だけの力で成り立ってはいないのです。

以前、「地域共同体の力能は、住民たちの力の総和だけではなく、生者と死者が連結して生み出している力である」という社会人類学者、ウィリアム・ウォーナーの研究結果を紹介いたしましたが、第九区の皆さんがして下さっている供養はまさにその生者と死者の
連結であると思います。第九区の皆さん、有難うございます。
  

               供養とは 生者と死者の 区別なく
               歓喜勇気を 送ることなり
                           読み人知らず 












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