盗難に思う №353


盗難に思う
平成27年12月16日

 この12月初め、私はひどく落ち込んでいました。原因は盗難にあったこと。回収前のお賽銭を盗まれてしまったことです。その日1130日朝、本堂のお賽銭箱が壊され、貴重なお賽銭が盗られていたことを発見しました。無残に投げ出された賽銭箱を見て悔しさと悲しさに襲われたのは申し上げるまでもありません。

 犯行は夜のことでした。しかし、睡眠中とはいえ私がそれに全く気づかなかったことが悔しく申し訳ない思いで一杯になりました。申し訳ないというのはむろんお浄財を下さった皆さまに対して、そして観音さまに対して、です。皆さまが観音さまにお寄せ下さった貴いお賽銭。それは寺のものと言うより観音さまのものなのです。

 私は自分の不覚が身に沁みて悲しく、皆さまへの申し訳なさに二、三日は食欲も失せる思いでしたが、盗難を知った皆さんからは一様に「方丈さんに怪我がなくてよかった」と身に余る温かいお言葉を頂きました。こんな身を案じて下さる皆さまのお心に厚く御礼申し上げ、わが不覚に改めてお詫びを申し上げます。

 その後のことですが、何と123日には犯人を逮捕したとの報告を警察から頂きました。現場検証に来られた折、必ず捕まえますと言われた長府警察署の皆さまの捜査力に驚嘆し敬服するばかりです。捜査に当たって下さった皆様に厚く御礼申し上げます。しかし、犯人が29歳の男と聞いて安堵とは別の思いもせざるを得ませんでした。

 聞けば犯人は道徳観念や根気、辛抱等を学ぶことが難しい環境に育ったらしく、結婚して子どもまで生まれたのに離婚。鳶の仕事も身につかずギャンブルや競艇で金がなくなると賽銭盗みをしていたようです。となると、その男は自分が願った人生を願いとは逆に生きていることになります。盗人になることを願って生まれる人はいないのです。

 自分の願いとは反対の人生を送ることになったらどうなるか。それは死後自らが悔恨と反省を迫られることになります。自らの裁きほどつらく苦しいものはありません。カトリック教にいう煉獄(れんごく)もそうです。私はその煉獄を少しでも軽くするために犯人の男がこれから贖罪(しょくざい)の道を歩んでくれるよう願って止みません。


     天道様はお見通し。
     観音さまもお見通し。
     千手千眼お見通し。

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