余生なし №366

余生なし
平成28年3月16日


 「静かな余生を送る」という言葉がありますね。実際にそんな人がおいでかどうか、私はその言葉通りの人は知りません。しかし、責任重大な役職に携わり、それこそ「席暖まるに(いとま)あらず」という仕事を多年続けた人があったとすれば、仕事から解放された後半生を「静かに過ごす」こともあるかも知れません。

 私は静かな生活が悪いとは思いません。それどころか、静かな生活こそ大切だと思います。余裕のない慌ただしい生活よりも静かな祈りの生活を送ることこそ必要だと思います。ただ、静かな生活と余生とは別だと思います。静かな生活イコール余生ではありませんし、そもそも人生に余生なんてないと思います。

 実は昨秋そしてつい先月、私の大切な友人が亡くなりました。一人は同窓のY君。もう一人は同じ会に属していたS先生です。同窓のY君は若い時から沖縄に関わり、日本と台湾中国の懸け橋になると言って雑誌の編集に携わりながら人材の育成に関わって来ました。これまで台湾、中国に何度行ったことでしょうか。

 もうお一方、S先生は教員を早期退職されて以来、念願の活動に打ち込んでこられました。取分け憲法九条を守る活動に尽力されておいででしたが、ネパールの教育支援では何度も現地に赴き、物心両面の援助を続けて来られましたし、地元の宍粟(しそう)市では「山歩の会」を主宰して毎月山登りというタフな生活を続けておられました。

 伺えばY君とS先生、お二人の死は突然ということでした。Y君はホテルで会合中に動脈瘤破裂で、S先生は自宅で急性心不全に襲われ、ともにあっという間ということでした。Y君もS先生もこれからまだやりたいことが沢山あった筈です。それだけにお二人の活動の一端を伺っていた私には急逝が無念でなりません。

 しかし、Y君とS先生の奥様はともに「本人らしい逝き方」だと言われます。思えばY君もS先生もともに走り続けた一生でした。奥様二人が異口同音に、本人らしい逝き方とおっしゃるのはそれを指してだと思います。余生なんて思いもしなかったお二人の冥福を祈りつつ私も一生走り続けたいと願って止みません。


            一生感動 一生青春 
                          ~相田みつを~

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