人間は時計だ! №374

平成28年5月1日

人間は時計だ! 
 先達てのことです。深夜、寝に就こうと二階に上がり、ふと窓ガラス越しに下を見ると月の光の中にフジの花が白くぼんやり浮き上がって見えるではありませんか。その様はまさに幻想的そのもの、思わず息を呑む思いがしました。私は間近にそれを見たいと思って躊躇なくまた下に降りて外に出ました。


 折しもその日は満月。中天の月に靄がかかって文字通りの朧月夜なのでした。その月の光の中にフジの花があります。静かです。風もありません。昼間とは打って変わって静かに垂れた長い花房は微動だにしません。月の光を浴びた沈黙のフジの花。深夜の静寂の中のフジ棚の景色はこの世のものとは思えぬ不思議なものがありました。

 私は言葉もなくその景色に見入りました。と、その時、私の全身を貫いてある思いが過りました。「これが無常だ」という思いです。このフジの花は誰も見る人もいない深夜も月の光の中で咲き続けている、という思いです。フジの花は人がその美しさを愛でる昼間同様、この深夜も同じように花を咲かせ続けているのでした。

 この世に存在するものはすべてが変化し続ける。それがお釈迦様の教えです。人間はもちろんトリ虫ケモノ、すべての植物、そして道端の石ころに至るまですべてのものは一瞬の休みもなく変化し続けるのです。そのことを、いまこのフジの花は私に教えてくれているではないか。私自身が無常の存在であることを教えてくれているではないかという思いでした。

 次に思ったことは「人間は時計だ」という思いです。修証義の第一章に「身(すで)に私に非ず、命は光陰に移されて暫くも(とど)め難し…」とありますように、私たち人間が生きているのは時間の世界です。時間はとどまることがありません。だからこそ無常なのです。一瞬たりともとどまることのない時間の世界に生きているから無常なのです。

 しかし、時間というものを考えれば、実は私たち自身が時間なのではないでしょうか。実は私たちは時間の世界に生きているのではなく、私たち自身が時間でありその時間を刻む時計なのではないでしょうか。深夜にも咲き続けるフジの花同様、私たち自身が自分の時を刻む時計ではないでしょうか。


    紅顔いずくへか去りにし、尋ねんとするに蹤跡なし…
                            ~修証義~

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