淘汰の時代 №426


淘汰の時代
平成29年4月7日


 先達て永平寺修行の時の同安居(どうあんご)(同じ年の修行仲間)の方4人がわざわざこの観音寺を訪ねてくれました。同安居と言っても私とは親子ほど歳の離れた若い方々です。それぞれが忙しく活躍されていて時間の余裕もない中、遠路遥々この下関までお出で下さったことには感激しかなく、まさに文字通り有難く嬉しいことでありました。

 その折、私はその若い方々がこれからの寺院、僧侶のあり方をどう考えているのか伺ったのです。いま寺や僧侶が大きな変化に直面していることは皆さまもご存知と思います。日本という国が直面している少子高齢化、過疎に伴う地域共同体の衰退、人々の宗教観の変化等々が、いまそのまま寺と僧侶の問題になっているのです。

 話を聴いていて思ったことの一つは地域差でした。お出で下さったのは奇しくも東京都心、東京近郊、北海道、福岡の方でしたが、寺とお檀家さんの関係が近いか遠いか、微妙に違うのです。無論それには各寺院の個別の理由もあるでしょうが、寺檀関係はまだ地域による差があるのだと思いました。寺檀関係をどう保つかが大きな問題なのです。

 私が若い方々に感心したのは寺としてよく努力をしていることでした。現状をしっかり捉えて寺、僧侶と世間のずれをなくしたいと思っていること。そのために読経会に尽力したり法話に力を注いだりという努力を重ねながら、これからのあるべき僧侶像について真剣に考えていることに頼もしさを覚えずにはいられませんでした。

 一人の方は「これから寺や僧侶は大変になるだろうけれど、そうなったら以前そうであったように働けばよい。僧侶は理想を失ってはならない」と言い、また一人は「これまで寺、僧侶は胡坐をかいてしまった。淘汰されるべき寺、僧侶は淘汰されて仕方ない。僧侶は法を伝えていくことが使命。いまそれが出来ていない」と言われました。

 若い方の意見を聴いていて私は我が身を思わざるを得ませんでした。同時にこれが寺、僧侶だけでなくすべての人に通じる問題であることを思いました。今私たちみんなが時代、社会の曲がり角に直面していると思います。それを座視し努力をしなければ淘汰される時代になったことを痛感せざるを得ませんでした。

 播かぬ種は生えぬ。
     打たぬ鐘は鳴らぬ。

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