「ゴミ屋敷」考 №422


「ゴミ屋敷」考
平成29年3月15日


 前々号(420)で私の「腰痛顛末記」を書いたためにまたまた皆さまにご心配を頂くことになって恐縮しておりますが、今回もう一つだけおまけの話をさせて下さい。それが上に記した「ゴミ屋敷」のことです。腰痛とゴミ屋敷が何の関係があるのか怪訝に思われることでしょうが、実は「大有り名古屋の……」だったのです。

 私が新年早々インフルエンザと腰痛のダブルパンチを食らっていた時のことです。体はだるいし腰は痛いしで動きもままならず、と言って行事の準備のために横なっていることも出来ずという状況にあって食卓代わりの机の上がみるみる雑多なものに覆われていったのです。それを見ていて「あ、ゴミ屋敷はこれか」と思いました。

 部屋であれ机上であれそこがきちんと片付いているというのは、意識的に整理整頓がされているということでしょう。その不断の努力がなければ部屋も机もあっという間にものが散乱することになります。新聞、チラシ、郵便物、薬袋、ペットボトル等々、覆われていく机を眺めながら私はそこにゴミ屋敷を実感せざるを得ませんでした。

 そしてその思いの中で一つ「あ、そうか」と気づくことがありました。それは「心も同じ」ということです。私たちには怠惰な気持ちが起こりがちです。精進どころか時には邪心悪心までもが起こります。私たちはそれを意識的に消し去る努力をしなければなりません。その努力がなければ心がゴミ屋敷になってしまうのです。

 話はちょっとずれますが、修行道場では作務が必須です。特別な行事がない限り毎日、午前午後に全山作務があります。「全山」ですから、部署を当番以外は全員がその作務をするのです。これこそが最も大切な修行なのです。掃き作務、草取り、落ち葉集め等々の作務に共通して言えるのは無心に作業に取り組むということです。

 庭を掃き清めるというのは自分の心を掃き清めるということです。草を取るというのは怠け心を取るということです。取り除かなければゴミだらけになってしまう心を清く保つためにするのが作務なのです。心のごみは一度や二度取り除いてもすぐにまた溜まってしまいます。毎日毎日の努力が必要なのですね。

精進(はげみ)こそ不死の道

放逸(おこたり)こそは死の(みち)なり
           ~ 法句経 ~

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