お迎えを受けるには… №508

お迎えを受けるには…
平成30年10月17日

 先月の観音様の会の時、皆さんに「死は怖いですか」とお尋ねしました。当然のことながら皆さん「怖い」と言われ、怖くないと言われたのはお一人だけでした。ではなぜ死が怖いのか。それは死が私たちに身近な現象ではなくなっているからでありましょう。死ぬ人は沢山いますが、死という現象からは遠くなっているのが現代の私たちです。

その原因は病院で亡くなる人が8割という現実にあります。その現実には家族が死にゆく過程を間近に見ることがありません。死という現象を実感するどころか死は怖いもの、忌避すべきものという感情が起こるのは当然でありましょう。死の恐怖は死にゆく者にとっては一層です。死んで何処へ行くのかと不安を抱くのは当たり前のことです。

 しかし、です。死を目前にしてその恐怖に怯える人が「お迎え現象」を体験すると、例外なく穏やかな最期を迎えると言います。これは何を意味しているのでしょうか。お迎えに来てくれる人は父母や兄弟姉妹、祖父母などが多いようですが、恐らくそこに死者の世界、あの世があるという安心感が生じるに違いありません。

 そう考えると、死の恐怖から逃れる最も有効な手段は、自分が死ぬ時も誰かにお迎えに来て貰うということにならないでしょうか。私自身はそれが一番だと思います。お迎え体験者はほぼ例外なく穏やかな最期を迎えると聞けば死の恐さから逃れるにはお迎え現象を信じてそれを願うことが一番確実ではないでしょうか。

 しかし、これには努力が必要だと思います。お迎えに来て貰うための努力なくしてお迎えを願うというのはやはり虫がよすぎますね。私はその努力が先祖供養に象徴される供養だと思います。何度も申し上げていることですが供養というのは祈りの力を送るということです。お明かりとお香とお花をお供えしてお経を読むことです。


 私はその行為、努力が亡くなった方々と一緒にいる現実をつくり出し、その結果、臨終近くなった時一番縁の深い方がお迎えに来てくれるのではないかと思うのです。お迎え現象というのはなるせん妄ではなく人間という霊的存在に組み込まれた命の仕組みを表しているのだと思われてなりません。

 


「供養しない者が
供養されることはない。」


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