18”紅葉幻想 №517

18”紅葉幻想
平成30年12月8日

      午後の陽を浴びてひそかな紅葉谷夢のようなる静けさの時

      冷ややかな風吹き渡る紅葉谷ひとり静かに歩みを進む

      一面に紅葉敷き散る細き道木漏れ日差してつくる我が影

      見上げれば明るく青き秋の空紅き紅葉をいよよ紅くし

 先月23日、今年も大寧寺様法要の帰り道、俵山の西念寺さんの紅葉を見に行きました。今年も見頃は過ぎていましたが谷から見上げる紅葉の幾本かは午後の陽を浴びて鮮やかに見えました。その景色にいつも思うのは静けさです。秋の午後の静けさには独特の雰囲気がありますね。木漏れ日の道にしみじみとする思いがありました。

 その思いの時、いつもその静けさの中に異界が潜んでいるのではないかという思いがしてなりません。もちろんこの世ではなくあの世でもない世界。それを異界と言うならばその異界が紅葉の散る静けさの中に潜んでいるように思うのです。

      はらはらと音しのばせて降りしきるいてふしぐれは夢かうつつか

 上はまさにその思いの一首です。一陣の風に誘われるように降りしきるイチョウを見ると一瞬自分が夢の世界にいるような錯覚を覚えます。それは明らかに現実世界ではありません。現実世界に潜む異界としか言えません。私たちは日常の現実世界しか見ていません。しかし、この現実世界の裏には私たちが日常感知しない異界があるのではないでしょうか。


 いつでしたか、私たちが花火やホタルに魅せられるのは花火やホタルが霊界での記憶を思い起こさせるからではないかと申し上げました。それと同じように、はらはらと雨のように降り散る紅葉は私たちに異界の存在を暗示するのではないでしょうか。思わず声を上げそうになるほどに降りしきる紅葉に不思議を覚えざるを得ません。

 私たちは霊界を感知することが出来ません。それは霊界を感知する能力を持っていないからです。テレビやラジオが映像や音声をつくることが出来るのは電波をキャッチして映像や音声に変換出来るからですが、私たちは霊界の受信装置を持っていないのです。しかし時に自然が不思議の世界を暗示してくれるような気がします。
 
 
大いなるいてふ黄葉を前にして
   我もの言へずものを思はず

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