お遍路で考えたこと② 「無縁」考 №536

お遍路で考えたこと②「無縁」考
令和元年5月10日

 お遍路に行って毎回思うことは「ここにも人が住んでいる」ということです。とりわけ山里など町から離れたところを歩いている時など「こんなとこにも…」と、我が身を棚に上げての恥知らずな思いにさえなります。

今回のコースは山里ではありませんでしたが思いは同じでした。電車の沿線や沿道には軒を連ねて沢山の家が建っています。そしてそこには私が知らない沢山の人たちが住んでいます。顔も名前も知らない多くの人がそこに暮らしています。恐らくは一生会うこともない人たちがそこに住んでいます。自分にとってはまさに無縁の人たちです。

とすると、その無縁の人たちはあくまで無縁の人たちなのでしょうか。顔も名前も知らない人たちですがその人たちもその多くは日本国民でありましょう。住んでいる場所こそ違えこの日本で令和という時を生きている同時代人なのです。縁というものを広く考えれば同国民同時代人というだけで無縁ではないという気もします。

昨年再び脚光を浴びた吉野源三郎さんの名著「君たちはどう生きるか」にコペル君がデパートの屋上から下を眺めて「人は水の分子と同じ」と気づくところがあります。四月の花祭りの法語に「水在水中互切磋 人在人中相琢磨(水人相見互いに心を磨く)」と書きましたが、水の分子も一分子だけでは水としての働きをなし得ないに違いありません。

 考えてみれば私たちが日常的に顔を合わせ言葉を交わして過ごす人はごくごく僅かです。日本国民一億人の中の何百万分の一でしかありません。一億人の大半は見かけは無縁の人たちです。しかし、その多くの無縁の人たちがいなければ国も社会も成り立ちません。まさにコペル君が気づいたように一人ひとりが分子の働きをしなければ人間社会は成り立たないのです。

 今回同行のKさんにお考えを尋ねましたらKさんは「無縁の人の死の近縁の人の哀しみが何らかの形で自分に影響すると思う」と言われました。まさに仏教的と言うべき深い考えにハッとさせられました。人間同士の有縁無縁はKさんが言われるように魂の問題として捉えるべきかも知れません。
 
 
  人間生まれるのも縁、
 老いるのも縁、病も縁、
  そして死ぬのも縁

 
 
 
 
 
 
 
 

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