祭りの晴れ着 №563

祭りの晴れ着
令和元年11月16日

 つい先日のことです。観音寺から車で20分ほどの所にある障害者施設の収穫祭にお邪魔しました。寺にお詣り下さる方のご縁で数年前から収穫祭にお伺いしているのですが、以前養護学校に勤務していた自分にとってはダウン症の方などいわば見慣れた顔の人たちにお会いできて安堵感さえ覚えるのです。

 ところでその日、私は着ていく衣服については何も思わずでした。町に用足しに行く普段の姿で行ったのです。これまでも衣服について考えることはありませんでしたし、お出でになっている方々も特段着飾っている人はありませんでしたから普段着のままで違和感はなかったのです。むしろ気楽な集まりの日という思いであったことを否めません。

 しかしその日、私は改めてその日が収穫祭、文字通り「祭り」の日だということを思ったのです。祭りの日ということは言わば「晴れ」の日。今では意識されることも稀になりましたが、ハレ(非日常)とケ(日常)のハレの日です。その時には晴れ着を装ってこそハレの日になるのではないかという思いが胸をよぎったのです。

 私がそのことを思ったのはもう何十年も前、神秘学の先生に伺った話を思い出したからです。恐らくその先生がドイツにいらしたときのことだと思います。かの国の女性の研究者は普段は汚れた白衣を着ていても論文の発表会には別人と見間違うほどおしゃれな姿で来るというのです。先生はそれが「祝祭」だと言われたのです。

 私はその時、祝祭という意味を初めて教わった気がしました。祝祭というのはそう言うことかと納得する思いでした。祝祭の根底にあるのは祈りでありましょう。普段は汚れた白衣を気にすることもなく研究に没頭していてもその成果を発表する日には見間違うほどおしゃれな姿で臨むというのはその日が祝祭、祈りの日だからに違いありません。

 申し上げましたように祭りというのは非日常です。収穫祭というのは自然の恵みに感謝し、その自然を司っている大いなる存在に祈りを捧げる日なのです。となれば、その祈りの日にはその祈りに相応しい姿をすべきではないでしょうか。私たちはいまハレとケをほとんど意識しなくなりましたが大切なことであると思います。
 
秋祭り 喧噪もまた 祈りかな

 
 

0 件のコメント:

コメントを投稿