金澤翔子展を観る №561

金澤翔子展を観る
令和元年11月10日

 先日、と言っても10月のことですが、下関市立美術館で開かれた金澤翔子展を観に行きました。金澤さんが揮ごうしているのをテレビで見たことがありましたが、実際に書を見るのは初めてです。正直その書には人を圧倒する力を感じました。それだけでなく、やっぱり書家と思わせられたのはさすがでした。

 今回の作品のうち私が特に感銘を受けたのは「般若心経」です。「般若心経」は掛け軸四枚のものと六枚のものが並べてありました。四枚のものは翔子さん十歳の時のもの、六枚のものは三十歳の折のものです。双方は見た目が全く違います。十歳の時のものはゴツゴツした感じですが、三十歳のものは書家の書なのです。

 十歳と三十歳では二十年の差があるのですから違いがあって当然ですが私は十歳の時の方に魅かれるものを感じました。その書は必死の思いそのものなのです。私は分かりませんでしたが書にはこぼれた涙の跡があると言います。毎日毎日、翔子さんはお母さんに叱られ泣きながら272文字の般若心経を書き続けたと言うのです。

 その十歳の時の般若心経には背景がありました。その年、翔子さんは普通学級から身障者学級に変えられたのだそうです。悲しみのあまり学校にも行けず、親子して途方に暮れていた時、お母さん、泰子さんは翔子さんに般若心経を書かせようと思い立ったというのです。翔子さんには難しすぎる挑戦でした。しかし、翔子さんは泣きながら書き続けたと言います。

 来る日も来る日もお母さんが罫線を引き翔子さんが書くという日々。泰子さんはその時を振り返って「翔子には厳しい鍛錬の刻であった。思えば翔子が書の道で生きる兆しはこの般若心経に在った。何処へとも行方の知れない辛い不安な凍土があったからあの凄い心経が芽吹いたのでしょう」と言われます。


 書家・金澤翔子の原点が十歳の時の般若心経にあったこと。そしてその背景には親子して孤立し悲しみに打ちひしがれる日々があったことに私は粛然たる思いを禁じ得ません。しかし、その絶望の中での努力があったからこそ書家金澤翔子が生まれたのでありましょう。今ではこの作品が一番人気があるそうです。

 
(書家翔子の誕生は)祖父、父、私、書によって貫かれた
(三代の)血、祈りにも似た願いなのでしょう。 
                   <金澤泰子>
 

0 件のコメント:

コメントを投稿