兄弟は他人 №602

 兄弟は他人

令和2年9月16日

 兄弟は他人の始まり、という言葉がありますね。この言葉、広辞苑には「兄弟は血縁とはいっても親子とは違い情愛も薄く他人のようになっていく」とあります。この説明になるほど、と思われる方もお出ででしょうし、そうかなと違和感を覚える方もいらっしゃるのではないかと思います。

 皆さんの中にも兄弟をお持ちの方は多いと思います。男ばかりの男兄弟、女ばかりの女姉妹、男と女の兄妹もありましょう。が、問題は兄弟同士の仲です。むろん人が羨むような仲のよい兄妹もおありでしょう。それはそれで誠に目出度く結構なことと思います。しかし、中には犬猿の仲どころか不俱戴天の仇に近い方もあるに違いありません。

 としたら、どうしてこの違いが生まれるのでしょうか。そのヒントは上に記した広辞苑の説明「兄弟は血縁とは言っても親子とは違う」にあるように思います。広辞苑」に言う通り、兄弟は両親の血を受けて生まれています。広辞苑が言う通りです。しかし「親子とは違って情愛も薄く」とは何を言っているのでしょうか。

 これは互いの血のつながりの深さを言っていると思います。自分と両親とは直結した血のつながりを持っています。しかし、兄弟は両親を介した血のつながりであって直接の血のつながりではありません。親等という言葉がありますが、自分にとって両親は一親等であるに対して兄弟は二親等であるのはそのことでありましょう。

 兄弟はそれぞれ親に対しては親子として強いつながりを持っています。しかし、兄弟同士は親子ほどの強いつながりは持っていません。親を介してたまたま兄弟になったに過ぎないと言っては言いすぎでしょうか。しかし、兄弟の真実はその言い方が当たっているように思います。では何ゆえにそうなるのでしょうか。

 人は親を選んで生まれてくるという考えがあります。その考えでいけば、人はそれぞれ自分の人生の課題を達成しやすい親を選んで生まれます。その課題は兄弟であっても別々ですから親が同じであっても生きる道は異なります。兄弟は元々他人。たまたま同じ親を選んで兄弟になったと考えるのが妥当なのでありましょう。


「兄弟は左右の手」とも言うねえ。

 むろん仲が良いに越したことはないニャー。

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