この一年 №614

 この一年

 令和2年12月31日

 令和2年も今日が大晦日。今年も一年が終わりました。この一年を振り返ると様々なことが思い出されます。収束どころか一層蔓延のコロナは申すまでもなく色々なことがありました。近年毎年のように繰り返される豪雨によって今年も多くの命が奪われました。特に熊本県では球磨川水系の氾濫決壊によって65名もの方が犠牲になりました。

 その一方で切ない事件も相次ぎました。分けて胸が痛むのは今年も育児放棄や虐待によって亡くなる幼い子がいたことです。食べるものも水さえもなくて一人死んでいった子どもを思うといたたまらない気持ちになります。親に見捨てられ虐待されて死んでいった子に救いはあるのだろうかと思われてならなかったのです。

 ドイツの人智学者シュタイナーは人は自分の一生を予定して親を選んで生まれてくると言っていますが親に虐待されて死んでいった子にもそれが当てはまるのか考えあぐんでおりましたが、以前一緒に人智学を学んだKさんから「虐待死させられた子どもの方が宇宙の進化に深く関わっているかも知れないと感じます」と手紙を頂きました。

 Kさんは「(子どもは)ある意味では親の虐待を許しているかも」と言われます。子どもが虐待死させられることを計画したかどうかは分からないけれどその根底には「生れようという意思」があると言われるのです。私はこのKさんの「生れようとする意思」という言葉に大きな示唆を頂きました。虐待死させられた子もやはり計画した人生であったろうと。

 私が養護学校教員をしていた時確信したことがありました。障害児は障害を持って生きることを望んで生まれた、ということです。それを敷衍すれば虐待されて死ぬ子どももやはりそれを自らに課して生まれてきたに違いないと思われるのです。Kさんはその子どもたちは私たちより「ずっとヒエラルキーが高いのでは」と言われます。

 シュタイナーの言うように人は自分の一生を予定して生まれてくるといいうことがすべての人に言えるならば虐待死させられた子にも救いがあります。というより、その体験によって人間に光を与えようと意図した崇高な魂には次生での偉大な働きを期待して賛美が送られるべきでありましょう。瞑目珍重。

「自然には何らかの意図があり、

 それを人間に託しているのではないか」

        <Kさんの言葉>

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