身心に法いまだ参飽せざるには №11

平成21年3月17日

心身に法いまだ参飽せざるには


 例えば風呂桶に水を入れるとします。ある程度溜まったとき「これで一杯になった」と思えば当然ながらそれ以上水を加えることはありません。しかし、その時「まだ足りない」と思えば更に水を加えることになりますね。例えが適確ではありませんが、このことは修行についても言えるのではないでしょうか。自分が己の精進について「これで十分だ」と思ったらその人の修行はそこで止まることになります。しかし、「まだまだ不十分」と思えばその人の精進はさらに続くことになります。

 道元禅師はこのことを次のように言われました。 「身心に法いまだ参飽せざるには、法すでにられりとおぼゆ。法もし身心に充足すれば、ひとかたはたらずをおぼゆたり」(正法眼蔵現成公案)。つまり、「自分が教えをしっかり身につけたいと思っているうちはまだ教えを体得したとはいえない。修行を重ねて本当に教えが身についたならばまだまだ自分は足りないと思うものだ」とおっしゃるのです。

 私はこの言葉に接する度に若かった日のことを恥ずかしく思い出します。三十歳初めの頃、私は坐禅とお経に夢中でした。朝は三時に起きて二炷の坐禅をし、その後は一時間ほどお経を読むのが日課でした。しかし、やがて私の心に「自分のしていることは坊さんでもかなうまい」という鼻持ちならぬ高慢が生じたのです。師匠にはそれが手に取るように見えたのでしょう。ある時私は師匠から「頭でものを言うな」と厳しく一喝されたのでした。


 私は師匠のその一喝で目が覚めました。自分のしていることが精進どころか慢心を生み、分かったと思っていたことは薄っぺらな知識であったに過ぎないことを思い知らされたのです。その数年前、仏教を分かったつもりでインドに行って同じような苦い反省をしたにも拘わらず同じ愚を繰り返したのでした。しかし、私は今でもなお自分の心の内側に慢心の芽が潜んでいることを否定できません。今でもなお、なのです。

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